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「いま死んだら日本に行けない」と2022年2月のウクライナ侵攻の直後、家族と離れひとりで日本に避難してきた女性がいます。当てもなくポーランドに渡り、それから人との出会いを重ねて大好きだった日本へ。熊本県で歩み始めた生活で、動物看護師になるという新たな目標を見つけました。「いつかウクライナの動物を助けたい」。人生を変えた決断をした彼女が、終わりの見えない戦争で負った心の傷は深く、癒えることはありません。(取材・文:KKT熊本県民テレビ 藤木紫苑)
「夢がなかったら死んでいた」家族と別れ、1人で日本に避難
レナ・ベレズナヤさん(23)は、ウクライナの第二の都市・北東部のハルキウで暮らしていました。両親と7つ下の弟とマンションで4人暮らし。ロシアによるウクライナ侵攻がはじまる直前までは、大学で食品加工などを学びながらソーセージ工場で働いていました。決して裕福な暮らしではありませんでした。そんな中でレナさんが大事にしていたのが日本のアニメを見る時間です。
「15歳ごろ、友達の家でスタジオジブリの『ハウルの動く城』を見て日本のアニメを知りました。それからインターネットで日本のアニメを見るようになりました。1番好きなアニメは『進撃の巨人』。2番目は『もののけ姫』です」
侵攻前のウクライナ・ハルキウの自宅の窓から見えた景色(レナさん提供)
2022年2月24日、この日を境にレナさんの暮らしは一変しました。
「朝5時に目が覚めると母から『見て、爆発』と言われて窓から外を見ました。その後、爆発音が聞こえてきました。それが一番怖かったのを覚えています。少しずつ慣れてきました。でも、次の爆発がどこで起きるかわからないから怖かった。爆発は花火と同じ音です。マンションの16階に住んでいたから、戦闘機の音がとてもうるさかった。『これが落ちたらわたしは死ぬ』と心の準備をしました」
侵攻開始から1週間ほど経った夜、レナさんは避難をしようと母に相談をしました。しかし、家族は家から離れたくないと拒みました。親など自分より上の世代の人たちは避難の決断をするのは難しいのだといいます。
「家族と一緒に避難できればもちろんいい。家族と離れることは悲しいと思った。だけど人が望まないときに、私は何もできない。それでも『わたしは行く』と母に伝えると『わかった』と私の大事な書類をまとめて渡してくれました。私には侵攻前からうつ病の症状があって『死にたい』と思うことが多かった。だけど、日本に行きたいという夢があった。私はいま死んだら日本に行けないと思った。だから避難しました。夢がなかったらそのまま死んでいた」
駅まで17キロ、地下鉄を歩いてたどり着いた国境 夢をつないで日本へ
避難を決断し自宅を出たレナさん。近所から町の大きな駅までを結ぶ地下鉄は侵攻により止まっていました。駅までおよそ17キロ、地下鉄のトンネルの中を歩きました。駅に着くと攻撃を逃れようと大勢の人が押し寄せていました。
「どこに行く電車かもわからなかったけど、どこかもっと安全なところに...と思って乗った。ボランティアの力を借りて国境を超えてポーランドへいきました。クラクフという町で会ったウクライナ人の家に住まわせてもらうことになりました」
一人で地下鉄の線路をひたすら歩いた。攻撃を避ける唯一の安全な道だった(レナさん提供)
清掃のアルバイトをしながらポーランドに1か月ほど滞在しました。周囲の人に「夢は日本に行くこと」と話したことがきっかけでポーランド在住の日本人・カスプシュイック綾香さんに出会いました。綾香さんは、侵攻後まもなく日本の避難民の受け入れ態勢について情報が少ない中で、日本に出発できる手立てを探してくれました。そして2022年4月、侵攻からおよそ2か月後にレナさんは日本にたどり着きます。
最初に向かったのは群馬県富岡市です。綾香さんの活動を知った佐藤裕さん家族がレナさんを受け入れました。当時はほとんど日本語が話せず、翻訳機を使って会話をしました。佐藤さん家族は簡単な日本語を一生懸命教えてくれました。およそ1か月後、レナさんは自立のため日本語学校に通いながら前橋市の工場でプラスティック部品を組み立てる仕事をはじめました。
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2024/02/23(金) 配信
KKT熊本県民テレビ
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