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特攻兵に注射を打った体験を話す蒲原宏さん=新潟市内で2023年5月10日午後1時42分、亀田早苗撮影
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太平洋戦争末期、日本軍が搭乗員ごと戦闘機などで敵艦に体当たりした特攻。出撃する兵士には覚醒剤ヒロポンが使われたことが知られる。元教員、相可文代さん(73)=大阪府茨木市=は、出撃前の隊員に注射した元軍医らに会い「ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍」(論創社)という本にまとめ、証言を映像にも残そうとしている。
【写真】元海軍軍医が描いたヒロポンのアンプル
ヒロポンは液体で注射や酒に混入した「元気酒」、錠剤の「突撃錠」として使われたことは元特攻兵らが書き残している。相可さんは注射した元海軍軍医、蒲原宏さん(100)=新潟市=を探し出し、証言を記録した。
◇「眠気防止の新薬」のつもりが
蒲原さんは新潟市内の寺の長男として生まれ、不殺生戒を犯さないようにと父のすすめで新潟医科大(現新潟大医学部)に進んだ。軍医となり、45年2月に海軍航空隊串良基地(鹿児島県鹿屋市)に配属された。
ヒロポンの注射を始めたのは3月ごろだった。沖縄戦が始まり、基地に特攻兵が全国から集結。夜間に出撃するため、注射は最年少だった蒲原さんの役目になることが多かった。1回の出撃で5~7機が飛び立ち、一度に二十数人、計200人ほどに打ったという。当時は「眠気防止の新薬」と思い、悪天候などで帰還した兵の話でも効果はよくわからなかった。ヒロポンと知ったのは戦後のことだ。
出撃前夜、腹痛を訴えた兵の診察に部屋に行ったことがある。兵士たちは眠ることができず、「脂ぎった顔をして、目だけがギョロギョロしてるんだよ」。鬼気迫る表情は胸の内の動揺を無理やり抑えつけているようだった。「ああいう人たちの気持ちはどうだったろうか。本当に申し訳ない」。蒲原さんは、声を詰まらせた。
基地では飛び立つ特攻兵を何度も見送った。戦況は悪化し、すでにまともな実戦機さえなかった。「『白菊』なんてのは練習機でねえ、夕焼けの中をヨタヨタふらふら行くんだ。(兵が)こんなのに乗るかと思ったら涙が出たね」と振り返る。基地の無線室で行方を追うと、出撃機の無線は最後にパッと途切れた。
蒲原さんは戦後、新潟に戻り、整形外科医として病院に務めた。被爆者3人のケロイド切除も手がけた。「(手術後)すぐにまたケロイドになっちゃう。すごい細胞変化がある。気の毒でした」という。整形医学史の研究者としても知られ、日本医史学会理事長を長く務めた。
◇「人間を弾にする戦術は外道」
一方で俳句をたしなみ句誌を主宰、句集も出版した。2022年発行の句集「愚戦の傷痕」に次の句がある。
<特攻は戦の外道敗戦忌>(16年の作品)
「戦術としては下の下。人間を弾にしたんじゃ外道だと思います」
特攻が「統率の外道」とは、海軍の特攻隊創設者、大西瀧治郎中将自身が認めていた。しかし、44年10月のレイテ沖海戦で大敗する一方、初の特攻では予想以上の戦果があった。「他に方法がない」と「全力特攻」に傾いた。
大西に反論する軍幹部もいた。美濃部正少佐は若い兵士にろくに訓練もせず突入させる効果の乏しい作戦に憤りを感じ、反対や妨害に遭いながら、夜襲部隊を創設。45年5月、鹿児島県曽於市に整備した岩川飛行場から厳しい訓練を施した隊員を出撃させた。牧場に偽装した秘密基地で徹底して飛行機や滑走路を隠し、米軍の空襲を受けなかった。
だが、多くは無批判に追従した。相可さんは作戦参謀として特攻を具体化した当時の軍幹部が戦後、「作戦は間違っていた」と上官を批判し、隊員を美化することで負い目を軽くしようとしたことに怒りを表す。
◇「実相、リアルに伝えなければ」
本には、日本がなぜ戦争に突き進んだのかという歴史も丹念に書いた。ヒロポンと特攻の関係を調べるきっかけになった、茨木高等女学校(現大阪府立春日丘高校)にあった陸軍施設でヒロポン入りとみられるチョコレートを包装した勤労奉仕や、特攻基地への動員、元特攻兵の命がけの訓練など、多くの戦争体験者の話を盛り込んだ。「体験を継承し、生きた力にするには、情緒に訴えるだけでは不十分で、戦争は止められない。戦争の実相をリアルに伝えなければ」と考える。(以下ソース)
12/13(水) 5:30配信
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★1:2023/12/16(土) 18:11:35.27
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