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「四季の会」メンバーをNHK経営委員長に据える
菅は05年10月に発足した第三次小泉純一郎改造内閣で総務大臣に着任した竹中平蔵の下、総務副大臣を拝命した。永田町や霞が関で売り出したのもここからだといえる。
これ以後、新自由主義路線における竹中・菅の師弟関係が続くことになり、菅は郵政民営化を進めるとともに、放送と通信の自由化を訴え、NHK改革に着手した。
そして06年9月、小泉から政権を禅譲された第一次安倍内閣が発足すると、菅は総務大臣に登用され、自他ともに認めるNHK改革の急先鋒となる。
「もはやNHK改革は、プロパーの会長には任せられない」
菅は衆参の総務委員会で改革の気運を煽り、受信料の値下げと義務化を打ち出してNHKに迫った。自著『政治家の覚悟』(文藝春秋)でも、総務大臣当時、橋本会長にNHK改革を突きつけた、と鼻を高くして次のように書いている。
〈この段階でもNHKの橋本会長は、
「(受信料の)義務化は必要だが増収の目途が立たないので、〇八年度からの二割程度の値下げはできない。料金体系の見直しの方向性は(〇七年)九月末に発表する」
と、あくまでも値下げには反対という主張を変える様子は見られませんでした〉
〈NHK改革を進めるためには、NHK出身の橋本会長では無理だと判断しました。そこで、近く半数の委員が改選されることになっていた経営委員会に、改革意欲のある民間人に入ってもらわなけれ�