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貧困をテーマに取材することが多い、ジャーナリストの吉川ばんびさん。自身も幼少期から貧困や家族によるDVを経験してきた。だが、生活苦に陥った人を取材した記事がネットに公開されるたびに、その人を批判するようなコメントが多くつくという。一体なぜなのだろうか?
「親ガチャ」が流行語になったことの意味
「親ガチャ」という言葉が、ユーキャンの2021年新語・流行語大賞に選ばれたことに複雑な気持ちになる一方で、少なからず、ある種の期待のような感情も覚えている。
これまで世間では、社会的格差や経済格差について語られるとき、多くの場合は「努力さえしていれば落ちこぼれない」といった意図の発言がメジャーだったのだけれど、コロナ禍で失業したり困窮したりする人が続出し、貧困が「他人事」ではなくなったことでようやく「生まれた環境の差」や「自分では変えようのない、固定化された格差」を多くの人が実感し、見過ごせない段階になったのだと思う。
困窮した人に「自分が悪い」と言いたがる人たち
そういった意味で2021年は変化の年でもあったと感じているが、その反面、「コロナ禍を生き抜いた人々」たちと「コロナ禍で打撃を受けた人々(貧困層)」の間には、さらに大きな分断が生まれたとも言える。
例えば先日、コロナ禍で生活困窮に陥った人を取材した漫画を掲載した『週刊SPA!』の記事に対して、その当事者を嘲笑、批判するようなコメントがいくつも書き込まれていた。
「選ばなければ仕事はいくらでもある、肉体労働は嫌だとか介護は嫌だとかわがままを言うから貧乏になる」
「生活保護を受ければいいのに、どうせ変なプライドで受けてないだけだから自業自得」
「就職氷河期とはいえ、非正規雇用を早く脱さないと、と気付けなかった自分が悪い」
「私は乗り越えた。できないのは怠慢」という生存者バイアス
貧困は自己責任。「就職氷河期もコロナも自分の力で乗り越えてきた」という自負がある人のなかには生存者バイアスがかかっている人も多く、「自分ができたのだから(普通に努力すれば)誰でもできるに違いない」と考えるゆえに「できなかった人」を「ただの怠慢」だとみなして、憎悪の対象にしてしまうことがある。
このような考え方は非常に短絡的であるし、なんら根拠もなく「自分ができたのだから、失敗したのはその人に責任があるはずだ」と、ただ自分の溜飲を下げるために「自分より劣った」「叩いてもいい」対象を見つけて暴論をふりかざしているにすぎない。
生まれつき「持っていない」人たちがいる
新型コロナ感染症の影響で失業した人や解雇された人が激増しているとはいえ、その割を食ったのは多くの場合、女性や非正規雇用者であり、もともと「中流」以下の生活を送っていた人たちである。そうした貧困化のリスクが高い層は長い間、多くは本人が生まれる前からすでに格差が固定されていて、下層から上層へと上がって行くことが非常に困難である。
固定化された格差を崩壊させることは個人の努力では不可能だし、貧困を脱するのに必要な文化資本、知的資本、社会的資本を「生まれつき」持っていないために、そもそも中流以上の家庭に生まれ育った人々とは条件があまりにも違う以上、比較のしようがない。
(中略)
「親ガチャ」という言葉は、もう努力してもどうにもならないほど追い詰められてしまった人たちの悲鳴が言語化され、共感を集めたものではないか。
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