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Jbpress2021.10.11(月)
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(l略)
■大久保利通の大坂遷都論の登場
このような中で、現状を打破するために、参与・大久保利通は大坂遷都を目指すことになる。慶応4年1月17日、大久保は総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を実行して、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。事実上の大坂遷都論である。遷都を契機として、朝廷の旧習を一新して外交を新政府が取り仕切り、海軍や陸軍を整備しなければならず、それが実現できなければ朝廷の基本が立ち行かないと切言した。
1月18日、大久保は同僚の参与・広沢真臣(長州藩)と2人で、議定・岩倉具視に面会して大坂遷都について相談した。ついで翌19日に、大久保と広沢は岩倉の勧めにより、有栖川宮熾仁親王と議定・三条実美に対して、遷都について提言した。またこの日、広沢が参与の後藤象二郎(土佐藩)と由利公正(福井藩)にもそのプランを話し、同意を得た。広沢はあまり目立たない存在であるが、その活躍は相当なものである。こうして遷都について、薩摩、長州、土佐、福井という、有力藩の代表と公家のトップとの間で、その意図や原則について、大まかなレベルとは言え一応の合意が成立したのだ。
1月23日、太政官(27日に二条城に移動)の上議事所において、大久保・広沢・後藤が浪華遷都(大坂遷都)について発議・説明し、その後に評議が行われた。評議は総裁と議定(有栖川宮、中山忠能、正親町三条実愛、岩倉具視、三条実美、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)のみによって行われており、大久保らは排除された形となった。これでは遷都案が承認されることは、最初から難しい状況であった。
案の定、公家からの猛烈な反発があり、例えば春嶽と容堂も政情が安定していないと意見して、「玉座」を動かすことに反対し、火急のことではないと主張した。また、公家の中では久我建通(前内大臣)が最も激しく反対しており、他の公家や諸侯に働きかけた形跡も見受けられる。まさに、必死の抵抗である。
このように、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することになるとして、これに抵抗の大きい公家ら保守派の激しい反対を受け、大久保らの大坂遷都案は1月26日に廃案となった。しかし、幕末からどのような逆境でも、簡単には決してあきらめない大久保の真骨頂はここからであった。副総裁・岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい、親征のための、しかも一時的な大坂行幸を提案し、29日にこれが決定を見たのだ。大久保の、まさに粘り勝ちである。
■大坂遷都論と真の目的と天皇論
ここまで、大久保が大坂遷都に固執した理由を考えてみよう。数百年にわたる「因循の腐臭」に凝り固まっている朝廷を改革すること、それに加え、そのような朝廷(および天皇の私的空間である後宮)から若い天皇を引き離すことによって、国民との接触が密であり、積極的かつ能動的なヨーロッパの皇帝のように、天皇を育てることを模索していたのだ。つまり、大久保の建白は遷都論であると同時に、天皇論であると言えよう。
君主としては白紙状態のまだ若い天皇を、新生明治国家のシンボルとして誇れるような天皇に育成しなければならないとの強い思いが、その背景となっている。そして、そのためにも1日も早い遷都を希望したのだ。大久保とその同志は、何としても遷都を実現しなければならなかった。
明治元年2月初旬、大久保は岩倉具視に朝廷改革に向けた意見書を提出した。その主たる内容は、天皇が表の御座所に親臨して万機を親裁すること、表には後宮女房の出入りを厳禁とすること、総裁以下の政府の要人と毎日面会すること、これは政治問題について学ぶことが念頭に置かれた。また、侍読(天皇・皇太子に学問を教授する人)を新しく人選して、内外の形勢について勉強すること、馬術の訓練をすること、これは外の空気を吸い、身体を鍛えるためにも必要であるとした。
このように、大久保は天皇とその生活空間の改革を訴えており、制度、規則も改正して今までの序列による差別をなくすため、行幸を一機会として、断然様々な改革を実行すべきであると強く迫ったのだ。大久保は因循固陋な旧体制から天皇を遮断し、天皇の日常から改革して、名実ともに天皇親政の体制を築きあげねばならないと考えた。そして、新国家にふさわしい天皇の教育は京都ではできないと判断し、そのためにも遷都が必要であるとの強い決意に至ったと言えよう。
■明治天皇に大久保らが初めて謁見
大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと心配