【奈良】7世紀後半の「のろし台」跡発見、白村江の戦い大敗後に建造か 渡来人特有の造り、駐屯者の詰め所とみられる大壁建物も [樽悶★]at NEWSPLUS
【奈良】7世紀後半の「のろし台」跡発見、白村江の戦い大敗後に建造か 渡来人特有の造り、駐屯者の詰め所とみられる大壁建物も [樽悶★] - 暇つぶし2ch1:樽悶 ★
21/01/24 19:04:10.24 68tq58WH9.net
のろしを上げるための煙突状の遺構=奈良県高取町で2020年12月10日午後2時3分、姜弘修撮影
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のろし台に駐屯した人の詰め所とみられる大壁建物跡=奈良県高取町で2020年12月10日午後2時34分、姜弘修撮影
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上空から見た佐田タカヤマ遺跡。左の鉄塔の右側がのろし台の遺構とみられる=奈良県高取町教委提供
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 奈良県高取町教委は20日、同町佐田の佐田タカヤマ遺跡で、7世紀後半の「のろし台」跡が見つかったと発表した。日本書紀には、唐と新羅の連合軍に大敗した白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)の後、外敵侵入に備えて九州から飛鳥の都に危急を知らせる「烽(とぶひ)」(のろし)が制度化されたとあり、国防整備の一環として築かれたとみられる。烽の明確な遺構が見つかったのは初めてで、専門家は「今まで不確かだった古代ののろしの実態に迫る成果だ」としている。
 関西電力の鉄塔建て替えに伴う発掘調査で、高さ約30メートルの丘陵頂上に、のろし台、大壁建物、掘っ立て柱建物の跡が1列に並んで見つかった。のろし台は、地山に掘られた深さ約2・7メートルの煙突状の縦穴で枯れ草などをいぶして煙を上げる構造とみられ、壁面が黒くすすけるなど使用された形跡もあった。大壁建物は並べ立てた柱を土で塗り込める渡来人特有の造りで、地元在住の渡来人が造営に関わった可能性を示すという。
 日本書紀は664年、「対馬島(つしま)・壱岐島・筑紫国などに防人(さきもり)と烽を置」き、大宰府防衛のために水城を築いたと伝える。また、律令(当時の法律)の一つ、軍防令には、烽は約20キロ間隔で置き、昼は煙を夜は火を上げるとの約束事や責任者を配置したとあり、町教委によると、見つかった大壁建物は駐屯者の詰め所で、掘っ立て柱建物はのろし台を管理する役人の役所だったと考えられるという。
 古代の山城に詳しい県立橿原考古学研究所の山田隆文指導研究員は「制度だけ作ったのではなく、実際に飛鳥までのろしのリレーをしようとしていたことを示す成果と言えるのでは」と評価する。現場の南方約600メートルにある同町の森カシ谷遺跡では2002年、今回ののろし台に似た遺構が見つかっている。奈良大の相原嘉之准教授(考古学)は「飛鳥を守る防衛網の一部が見つかったということ。今回と森カシ谷遺跡の発見で、古代ののろし台がどういうものだったのかが徐々に解明されてきた」と話している。
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、現地説明会は行わない。【姜弘修】
毎日新聞 2021年1月20日 19時45分
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