20/08/09 10:57:05 VqwsaWcI9.net
欧州の中で、唯一「緩い」規制を貫徹したスウェーデンの新型コロナ流行もようやく 小康レベルとなり、
4カ月半ぶりにデンマークが国境を完全に解放した(毎週の新規感染者が1万人あたり2人以下という条件)。
もっとも、他の北欧諸国より大きく遅れ、犠牲者も一桁多い。だが、それでもグラフの示すようにスウェーデン国民の7割が公衆衛生局を信頼し、
国民の6割が対策を「経済と健康のバランスが取れている」と評価して、もっと感染対策を優先すべしという意見を大きく上回っている。この数字は過去4カ月変わっていない。
この事実を意外に思う方も多いのではあるまいか? その意外感の原因は、恐らくスウェーデンの方針に関する誤解に起因すると思われる。
スウェーデンという対象は、好感を持つ人と嫌悪する人がかなりはっきり分かれ、それぞれ勝手な(=誤解まじりの)賛同・批判をしがちだからだ。
そこで、本稿では住んでいる者の立場から、スウェーデンで支持されているコロナ戦略を改めて説明したい。
その基本は「論座」の『「日常をできるだけ維持する」スウェーデンのコロナ対策』でも書いたように、科学的根拠を優先して、外国の動向や目先の悲劇に惑われないドライなものだ。
新型コロナウイルスは、3月初めには撲滅不可能な規模で欧州に広がった。その段階で予想されていたのは、
最適のワクチンと治療法の確立には経験的に10年単位の時間がかかることだ。少しの効き目しかないワクチンですら、必要な数だけ得られるのに通常2年、最低で1年以上かかる。
その前提で打ち出されたのが、医療崩壊が起こらないレベルに流行を抑え「続ける」という長期・耐久戦略だ。
もちろん、医療崩壊ギリギリの場合、外出禁止等「短期決戦型」の対処が必要かもしれないが、その事態に陥ったのはイタリア北部やマドリッド、パリ、ロンドンなど一部の都市・地域だけだ。
他の地域なら長期間維持できる対策を模索できたはずだ。しかし、これを欧州で実践・貫徹したのはスウェーデンだけだった。
1000人単位の犠牲を許容する背景
そもそも全ての外出にリスクがある。例えば子供の交通事故を考える。死亡リスクも重傷リスクもコロナよりも高いはずだが、
だからといって外出や登校を禁止にはできない(コロナではこの愚がスウェーデン以外でまかり通った)。では、どこまでの犠牲が許容されるべきか?
先日、向こう1年の犠牲者数の予測として2200人(1100~4400人、死因の2%強)という予想が出たが、反響はほとんどなかった。
行動制限が引き起こす犠牲(失業者の短命化、精神圧迫など)として予測される桁と同じだからだ。
インフルエンザが蔓延した場合の超過死亡も1000人単位だ。対策の遅れで犠牲が6000人になってしまったが、
この先はもっと少ない。だから現在の方針が支持されている。
スウェーデンで高い犠牲が許容される根底に、延命処置を嫌うという欧州全体の考え方がある点も見逃せない。
助かる確率が低く、かつ運良く助かっても余命が少ない人に、どこまで医療リソースを注ぐかは、福祉国家を成り立たせる上で避けては通れない問題だ。
この「最適化」のシステムを「命の価値の判断だ」として糾弾するのは易しいが、それを楯に全ての人間に最も高価な治療を施せば、
そのコストを支える分だけ人々を貧乏にして、経済的弱者の寿命を削る。このバランスをどこに取るかは全ての福祉国家の課題だ。
日本で未だにタブーの問題だが、これを避けていては「経済と健康のバランス」「許容できる犠牲はどこまでか」というコロナ特有の課題には答えられまい。
山内正敏(やまうち・まさとし) 地球太陽系科学者、スウェーデン国立スペース物理研究所研究員
スウェーデン国立スペース物理研究所研究員。1983年京都大学理学部卒、アラスカ大学地球物理研究所に留学、博士号取得。
地球や惑星のプラズマ・電磁気現象(測定と解析)が専門。
URLリンク(webronza.asahi.com)