20/01/23 12:41:59 av6leALQ9.net
三菱グループの会長・社長は毎月第2金曜日の正午に丸の内の三菱商事本社ビルの21階に集い、社長会「金曜会」を開催する。公式見解では親睦団体だが、グループの最高意思決定機関である。
グループの頂点に立つのはご三家。序列があり、長男が三菱重工業、次男が三菱商事、三男が三菱UFJ銀行。ところが「組織の三菱」の結束に亀裂が走った。長男の力が衰えたからだ。
衰退の原因のひとつは三菱自動車工業。1970年4月、三菱重工の自動車部門が分離・独立してスタートした。
トヨタ自動車などの牙城を、どうすれば崩せるか。69年、三菱重工社長に就任した牧田與一郎は、大きな賭けに出た。米クライスラーが15%資本参加した。外資導入をテコに競争力を高めるというシナリオを描いた。
しかし、実態は三菱グループの丸抱え。グループ企業の社員は「バイ三菱」の掛け声とともに三菱車を購入した。「三菱車以外は駐車場に入れない大手企業もあり、“三菱詣で”をする時には、時代遅れのデボネアに乗り換えた」と述懐する経営者もいる。
2000年代にリコール(回収・無償修理)隠しの問題が相次いで指摘され、度し難いまでの隠蔽体質が露呈した。
「三菱は国家なり」。三菱重工は防衛産業の雄として君臨してきた。国家相手のビジネスだから、情報は徹底的に秘匿した。すべての情報を隠蔽する三菱重工のDNAをしっかり引き継いだのが、重工の嫡子にあたる三菱自動車だった。
三菱自は05年、ダイムラー・クライスラーが一方的に資本提携を解消したため経営危機に陥った。三菱重工、三菱商事、東京三菱銀行(当時)のご三家が優先株を引き受けて、なんとか乗り切った。
だが、16年に燃費データの不正が発覚。新車販売台数が半減し、奈落の底に突き落とされた。カルロス・ゴーン会長(当時)率いる日産自動車と資本・業務提携。日産が34%出資する筆頭株主になり、三菱自を傘下に収めた。
三菱重工は18年、保有する三菱自株の大半を三菱商事に売却した。重工は国産初のジェット旅客機MRJ(19年6月に三菱スペースジェットに名称を変更)の開発の遅れで業績が悪化。設立母体である三菱自の株式を手放すところまでに追い込まれた。
「航空機生産は長年の悲願」。08年3月、三菱重工社長の佃和夫(現特別顧問)が高らかに宣言して小型ジェット旅客事業は始まった。ところが、13年後半としていた全日本空輸(ANA)への初号機の納入が5度も延期された。
三菱スペースジェットを開発する三菱重工の子会社、三菱航空機(愛知県豊山町)は、開発費が当初見込みより大幅に膨らみ、18年3月末時点で1100億円の債務超過となった。18年10月、三菱重工は1700億円の増資引き受けと500億円の債権放棄を組み合わせ、2200億円を追加支援。債務超過を解消した。
三菱航空機の水谷久和社長は19年12月20日の記者会見で、20年半ばの納入について、「厳しい」と述べ、6度目の納入延期を示唆した。そこには、長崎造船所と同じ病理が透けて見える。
航空機事業を手掛けるのは、名古屋航空宇宙システム製作所(通称名古屋)。創業の地である長崎造船所と並ぶ「別格の存在」(関係者)だ。造船の長崎が衰退してからは、名古屋が重工の本流に躍り出た。
名古屋には、東京大学工学部の中でも成績優秀者が集まる航空工学を専攻した技術者が多い。中でも、戦闘機担当がエリート中のエリート。民間航空機は「二軍扱い」(同)。
プライドの高さが国産初の小型ジェット機の開発遅れをもたらしたという指摘がある。現状はさらに複雑だ。日本人のエリートの風上に外国人部隊が立ち、両者の「情断」(情報の断絶)が、深く懸念されている。
三菱スペースジェットは果たして飛ぶのか。
1/23(木) 9:26配信
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