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年の瀬を迎える頃になると、多くの人々は、忙しないながらも、やがて訪れる新しい年の幕開けを前に、どこか浮かれた心持ちになるものであるが、そうした年の瀬に際して、かつては“浮かれた心持ち”どころではない乱痴気騒ぎを引き起こしていた人々も、少なからず存在していたようだ。
「なにせこの村の連中どころか、隣近所の集落からもゾロゾロと集まってきたほどだからね。さすがに今じゃそういうこともないけどさ、当時は相当なものだったよ」
かつて、東北地方のとある寒村で行われていたという年越しの儀式についてそう語るのは、現在も当地に住み、アスパラガス農家を営んでいるという石川義家さん(仮名・81)。石川さんの話によると、日本全国の人々の多くが、除夜の鐘に耳を傾けている大晦日の深夜に、当地の人々は俄かに信じ難い酒池肉林の宴を催していたのだという。
「毎年さ、大晦日になるとね、村はずれの天神様……ああ、あそこ。あそこに山のちょこっとへこんで、屋根みたいなのが見えるところがあるだろ? あそこにね、天神様があるんだけれどもさ、あそこにね、みんな集まるの。けど、お寺さんじゃないものだから、除夜の鐘なんかなくてね、みんな酒や肴を片手に集まってきて、まあ、宴会みたいなのをしながら、年が明けるのを待つわけだ。んでもって、年が明けたってなると、みんなまっ裸になってね、誰彼構わずに交わるっていう。そういう儀式だね」
大晦日の宵の口に、同村をはじめ、近隣の村々からも集まった多くの男女は、持参した酒や肴で宴会をしつつ日付が跨ぐ瞬間を待ち、年が明けた瞬間に、一斉に脱衣。後はそれこそ大規模な乱交パーティとも言うべき光景が展開されるのだという。
「そんでもってね、それがひと段落つく頃にはさ、ちょうどあっちの山の方から初日の出が出てくるの。そしたらみんな“コト”をやめてね、裸でお天道様の光を浴びる、と。そういう儀式だわね(苦笑)」
宵の口から宴会を開くところまでは良しとしても、年明けとともに乱交パーティじみた行為を行い、初の日の出を“全裸”で拝む―現代の我々からすれば、彼らがかつて“当たり前のこと”として考えていたこの儀式は、とても正気の沙汰とは思い難い“奇習中の奇習”ともいうべき代物だ。
「まあね、さすがにそういうことも随分と昔になくなってしまって、今じゃ家で紅白なんかを観ながら過ごすけどもさ、私なんかみたいに、いい時代を知ってる人間からすると、本当に味気ない年の瀬になっちまったよ」
「年越し」という言葉を聞くと、多くの人々が、NHKの紅白歌合戦を観たり、年越し蕎麦を食べたりといった、ステレオタイプなイメージを抱きがちだが、この世の中には、当地の人々に限らず、そうした平凡な年越しとは一線を画す年越しを行う人々も、かつては思いのほか多く、存在していたのかもしれない。
(取材・文/戸叶和男)
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