【青森】飢えに泣き、わらで空腹しのいだ大正大凶作/青森の窮状克明に記録 都内の教会で掲載紙発見at NEWSPLUS
【青森】飢えに泣き、わらで空腹しのいだ大正大凶作/青森の窮状克明に記録 都内の教会で掲載紙発見 - 暇つぶし2ch1:nita ★
18/01/01 15:30:02.94 CAP_USER9.net
1/1(月) 12:27配信
Web東奥
東京・中野のキリスト同信会に保存されていた機関紙「おとづれ」。大正2年の大凶作時の記憶が静かに閉じ込められていた。左ページ3段目に「浅田又三郎」の名が見える
 1913(大正2)年の大凶作に際し、青森県の状況を記した新聞が、東京・中野のキリスト教団体「キリスト同信会」で新たに見つかった。当時、藤崎町出身のキリスト者で実業家の長谷川誠三(1857~1924年)が大量の救済米を購入したという逸話が知られているが、記事にはこの救済米が伝道とともに県内各地に配布されていった様子が克明につづられている。凶作史の一端として注目され、長谷川の事績を具体的に裏付ける記録にもなっている。
 大正2年凶作の各種史料を所収する、県史資料編「近現代3」によると、同凶作の際、県内の米の収量は平年の2割程度。損失額は当時の県の総生産額3千万円の3分の2に当たる2千万円に上ったとされ、経済、産業はもとより、政治などあらゆる分野に影響が及んだ。
 行政による救済活動のほか、日本メソジスト弘前教会などが救済組織をつくり、外米の廉価販売などを展開した当時の記録が多数残るが、県外からの民間の救済活動については、これまであまり知られていなかった。
 見つかったのは、同信会の機関紙「おとづれ」。明治学院大学キリスト教研究所協力研究員の岡部一興さん(76)の調査の過程で、存在が明らかになった。同会の伝道者浅田又三郎(1878~1944年)が、凶作の翌年の14(大正3)年3月から7月ごろにかけて、長谷川の協力を得て米や衣類、慰問用の新聞を配布して歩いたことを、浅田からの音信記事として伝えている。
 「おとづれ」や「キリスト同信会100年史年表」(1989年、同信社)によると、伝道の期間中は合わせて約5800人が各地の役場や学校、公会堂などで行った伝道の集会に集まった。このとき、長谷川は私財20万円(現在のおよそ2億円相当)を投じて外米を用意したとされる。
 このうち、4月の1日から20日までのことを記した7月の「おとづれ」の記録を見るだけでも、浅田の集会は「大鰐温泉西重旅館」「石川村役場」「浪岡小学校」など延べ35カ所で開かれ、米は計8トン以上を配布。長谷川は計27トンを用意していたと伝えている。
 窮状の描写も生々しい。2月の現地視察の記事を見ると、浅田が長谷川の地元藤崎から浪岡、青森付近などを歩いたことが記されており「食するものもなき上に此寒中に小供に綿入を着する事を得ざる人もあり」「四日も何も食ふを得ずして飢に泣きをる老人などもあり」などと伝えている。
 「縣下(けんか)にて最も悲惨に陥れる處(ところ)」とされた三戸郡では、松の木の甘皮を細かく
削って煮たものに、そば粉などを混ぜて塩で食べる「松皮餅」や、わらの柔らかい部分を細かくしていり粉にし、野菜や麦粉を少量混ぜて煮て食べる「藁(わら)こうせん」などを食べていたと記述。これらは「獣も厭(いと)ふほどのもの」で、実際に食べた人からの伝聞として「藁こうせんの方は喉(のど)にひりつきて呑(の)み込むさへ困難を感じ松皮餅は丸で半紙をかむが如(ごと)き由に候」などと書き残している。
 県県史編さんグループの中園裕主幹は「大正2年の凶作は、青森県はじめ東北地方の疲弊を招いた。当時の悲惨な状況や、それに対応した県外からの慈善活動の様子が具体的に分かる『おとづれ』は、凶作史の一端を語る新出の価値ある史料」と評価している。
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)


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