07/11/13 17:35:45 c84dZXCB
10年前、僕は同じ劇場でエヴァ劇場版のAirを観た。それは高校時代後半の全てだったエヴァの最後を見届ける為、
同時代のグルーヴ感を感じる為だったと思う。深夜、TV局が行列に並んでいる人に取材している姿を横目に見て僕は
「お前らには絶対にわからねぇよ」なんて悪態をついていた。
あれから10年が経ち、僕はまた「ヱヴァ」を観に来ている。庵野秀明が全身全霊をかけて、僕達に叫んだ
「お前ら、こんなもの観てるんじゃねぇ!」という叫びも虚しく僕は今、ここにいる。それは自分が選んだ道だけど、
それでもスーツを着てここに並んでいる自分の姿は、傍から見て、とても滑稽だろう。
「何故僕は今、ヱヴァを観るのか。」
この問いはここに来る前からずっと僕の頭の中でループしている。その答えはきっと庵野秀明によってフィルムで示される筈である。
でもそれ程多くは期待していない。何より僕は当時に比べて歳を取ったし人生経験も積んだ。離婚も経験した。
それは僕の心に大きく影響して、僕の中から少しづつ童心の純粋さは失われていった。それを肌で感じていた。
僕は十分に大人だ。それも随分腐った大人になっていた。当時とは違う。そんな事を考えながら立ち続ける。
映画は静かに始まって、劇的に幕を閉じた。
興奮する観客の中で一人僕はうっすらと涙を浮かべていた。それは感動の涙である。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではなかった。
それは全く同じキャラクターと世界観で描かれた純粋な二次創作物だった。「エヴァ」で面白かったと思われるエピソードを凝縮し、
解像度を上げ、劇場作品として耐えられるクオリティにまでベースアップして新しく作られた「エヴァ」だった。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではない。
それは様々なガジェットで示されている。「エヴァ」が「ヱヴァ」としてリメイクされた理由、それは庵野秀明が「閉塞した時代」に風穴を空けようとした、
という一点に収束する。「エヴァ」が批評的であり、文学的であり、映像芸術的であったことに比べて「ヱヴァ」は極めてアニメ的だった。
表現者・庵野秀明の本気は恐ろしい。彼の本気は時代を動かす。「ヱヴァ」は庵野秀明の憂さ晴らしでは終わらない。
彼は再びアニメーションという表現を信じる事ができた。彼は再び物語が持つ強度を信じた。その事が僕にはとても嬉しかった。
彼が10年前に三行半を突きつけたアニメーションを、どんなに蔑まれてもずっと追い駆けてきた僕は、そこに一筋の光明を見る事ができた。
庵野秀明が再び信じたアニメーションという表現手法。それは日本が世界と鎖国し独自の文化として大切に育ててきた集団芸術、総合芸術である。
宗教に並びうる文化的発明と言い切ってしまっても構わない。
アニメーションには未来がある。SFは子供たちに夢を届ける。ぼくらはそのファンクションを十分に生かして自らの人生を豊かにしなければならない。
次世代へ繋ぐ夢を語り続けなければならない。素晴らしい芸術作品を創作し続けなければならない。
素晴らしい芸術作品の下僕として作品に仕えなければならない。
ピラミッドが何故素晴らしいのか?万里の長城が何故人々に感動を与えるのか、
東大寺の大仏や金剛力士像が何故現代でも価値を持ち続けているのか。そ
の事について僕達は自覚的にならなければならない。ゴシックの大聖堂が持つ光と影が作り出すドレープの豊かさ、そ
ういった表現が何故我々の心に届くのか。全てはたった一つの事に気づく事で理解できる。芸術とはそういうものだ。
「ヱヴァ」はその意味で十分に芸術作品足りうる。つまり「エヴァ」とは違った芸術的価値を持つ作品である。
「ヱヴァ」を観て涙を流した僕が思った事。それは「庵野秀明の帰還」と、
「エヴァ」ではない全く素晴らしい作品の誕生の瞬間に立ち会えた事である。世界はまだまだ素晴らしい出来事で溢れている。