07/06/12 20:06:03
>>66
生きている限りチャンスはあるっていうのは、未来をつくる創造力に希望を持たせているといえる。これはシンジとレイがアスカの首を絞めた後の会話から、十分推測できる。だから、最初の環境がたとえ奴隷であっても(みじかな例だと貧乏とか?)
創造力を持ち生きている限り、奴隷から抜け出すチャンスがあるというのがいいたいことだと思ってる。
そして、それは分かり合えるかもしれないという希望と同一のLVで語るものだというのが、もっと突き進んだおれの意見。
どういうことかというと、希望はあるが、現実とは思い通りにいかないことの連続でもある。生きている限りチャンスはあるが、生きているだけでは幸せにもなれないし、幸せになる前に死んでしまうという不確実さがある。
どういうことかというとゼーレとゲンドウの関係でそれを分かりやすく述べてみようと思う。その前提条件として、ゼーレとゼーレの目的を潰すには人類補完計画の発動しかないというのが必要になってくるわけだけどね。
(>>66に対しては反論の根拠として、冬月のわたしを簡単に消すことなど雑作の無いことという発言を参照してもらいたい。それだけではもちろん、苦しいからもっと補足する必要があるが・・・今回はテーマを絞らせて貰う)
ゲンドウはひとつの願いを適えるために様々なものを犠牲にする必要があったということ。また、適えられなかった願いもある。
例としては、ユイには逢えたが自らが選択する権利を手中に収め、自らのシナリオを描けなかった失敗、ネルフのトップとしての汚い仕事をせざる負えなかった不幸
そうなると、ゲンドウが、幸せだったかという問いを死の瞬間(過去は判断できるものであり、未来が続かなくなれば評価は出来る)に振り返ると、全てをひっくるめて判断すれば幸せだったかもしれないという曖昧な回答しか出せないのではないか。
とするならば、人間が現実を認識する術と現実のロジカルで統計的な枠組みは全く別物として存在すると考え、枠組みとしての現実を見せながらも人間は希望やチャンスを信じて生きるべきであるといいたいということが分かってくる
とすると、ゲンドウは希望やチャンスを信じて生きていた存在であったということは出来る。だから、自殺をしようとする赤木親子が庵野からすると最低なのではないかな