07/06/27 02:29:31 LgbfT4HA0
>>387
確かに彼ら、中核にいる敵役は、俗悪な俗物としては描かれていなかったね。
でも少なくとも、金剛寺やコシヒカリに、ドラマ性のある深み、を、俺は感じなかった。
まぁ、感じ取れなかった、でも良いけど。
問題なのはそこなんだよ。
物語として、ドラマとして、彼ら中核の敵役と、主人公との対立、関わり方に、読者が感情移入できるモノが無い。
メッセージを伝えるのにドラマ性が重要になるのはまさにそこで、例えば正しさを担うべき主人公に対して、読者
が共感し、自己投影が出来る様に物語を作らなければ、物語を使って 「疑似体験」 させる事が出来ないんだよ。
疑似体験をさせるからこそ、物語を使ってメッセージを描くことに意味がある。
それをしないのなら、物語なんか使う必要はないんだ。
テーゼとアンチテーゼの対立で、テーゼを掲げるべき側が苦悩し、傷つき、それでも立ち向かい信念を貫き、成
長する。
それは古来より培われてきた、いわゆるビルドゥングスストーリー、成長の物語としてはオーソドックスな作劇法だ。
だから、想定される読者によって、アンチテーゼとなる敵役のキャラクターも変わってくる。
社会経験の少ない子供を対象とするならねいかにも恐ろしげで悪そうにしたりもするし、思春期の読者なら、思春
期の悩みや葛藤の原因として捉えられやすいものを象徴したりもする。(“物わかりの悪い大人” であったり、“童貞
気質丸出しの主人公を馬鹿にするいけすかないイケメン” だったり)
言い換えれば、敵役をどう描くかで、読者をどう想定しているかが分かる、とも言える。