07/09/13 01:37:00 qgataNdx
たとえばある特定のルートでのみ純愛を一人の女に捧げる主人公が、
他のルートでは優柔不断で本命を選べず何人もの女をとっかえひっかえしては可哀想な目に遭わせる惰弱な男となるような場合、
彼への評価はたいてい「いけすかないヘタレ主人公」ということになるでしょう。
そこでは純愛ルートの可能性が優柔不断ルートやバッドエンドルートの可能性と差し引きの上で消却されてしまっています。
普通に考えれば、そうやって可能性まるごと人格に責任を負わせるというのは実際にはご無体な話のはずですが、
僕たちにとって分岐ストーリー作品の主人公はやっぱり「可能性の総体」として印象をはじきだして評価せずにはいられないのも事実。なぜでしょうか?
簡単にいうと、
それは、選択肢を選び直して「全ての可能性を実体験できる」ゲームの宿命といえます。
多くの筋道をもつ作品をコンプリートしたとき、我々はすべての可能性を実際に起きたこととして思い出すことができるようになってしまう。
すべてが可能性でありながらすべてが既成事実でもあるという不思議な時空を、ゲーム攻略者は内在させることになる。
そのために、主人公は劇中においては毎回一度きりの人生でひとつの人格だけに生きていながら、
我々からは「あんなことだけでなくこんなこともする、あいつは●●な奴だ」と全体ひっくるめた評価を下されてしまうわけです。
作り手のほうでもそのへんは気遣いが多く、分岐先の展開によって主人公の性格がぶれないようにシナリオの内容を調整するとか、
あえて極端から極端へ走れるような展開で楽しませるとか、
いっそのこと一本道にしてしまう……など対策が施されている例はよくみられます。
主人公に固有の名前がなくて、また主人公が一言もしゃべらないゲームなら、
りっぱなことをしようが酷いことをしようが僕たち自身が直接にその責任を引き受けられるんですけどねえ(笑)
最近は主人公もキャラクター消費の一環としての趣を強めてきたので、ますます人格上の責任は重くのしかかっていくことになりそうです。