07/10/06 11:51:17 OTC6ZE8s
その言葉を聞いた時、八神はやての心中に沸きあがったのは困惑だった。
それは、自身の正義が揺らぐ感覚、足場が今にも崩れそうな浮遊感を伴っていた。
誰かを殺してまで自分の願いを通すなど、絶対に間違っているという信念。
だが、その信念こそが、誰かを傷つけ、絶望させるかも知れないなどということは――考えたことも、なかったのだ。
「そんなつもりではない? 確かに、君が願っているのは誰かを守りたいということだ。それに違いはあるまい。ならば――」
沢山の人が、多くの犠牲を支払った上で自らの生がある。それを理解しているが故に、命の全てを使い果たしても誰かを守りたいと、そう覚悟することができる。
そんな純粋さを備えていたのが、八神はやてという人物だった。
「――祝福しよう。
喜びたまえ。君の願いは、ようやく叶う」
「……何、やて?」
「誰かを守りたいのだろう? 分かっていた筈だ。明確な悪がいなければ、その望みは叶わない。
何故ならば、君が望んでいるのは『誰かを守る』ということだからだ。それは『誰かに無事でいて欲しい』という願望とは、表層で相反せずとも奥に秘めたものは真逆だ。
たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には倒すべき悪が必要なのだから」
だから、理解できてしまった。
八神はやてが持つ最も純粋な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。
騎士カリムの予言。管理局システムの崩壊を告げる詩を聞いたとき、自分なら世界を守れる、守りたいと、彼女はそう考えた。
それは、確かに正義だった。だがそれ故に、何よりも醜い呪いだった。
そう、何かを守ろうという願いは、同時に、何かを犯そうとするモノを、望む事に他ならない――
「だが苦しむことはない。人間とは、他者の不幸の上でしか幸福を謳歌できぬ獣の名だ。
誰かを否定することでしか肯定できぬ願望があるのなら、何を躊躇うこともない。自らの意思で他者を蹴落とし、その先へと進みたまえ」
その苦悶を覆い隠すように、神父は言う。
『敵ができて良かったな』と。その言葉こそが、胸の奥を突き刺した。
左手を樹から引き剥がし、呆然とする彼女の横を通り過ぎ、
「さらばだ八神はやて。そして、最後の忠告だ。
――気をつけたまえ。これより君の世界は一変する。
どのような変化かは分からぬが、自らの淵を覗いた人間は、決してそのままではいられない。
ならば、自身を自身足らしめる一片だけは、全てを賭して護り抜け。それだけが、今の君に残された矜持だ」
最後に、本心からの忠告を残して歩き去る。
――その背中に、懐古と回顧を浮かべながら。