10/06/25 04:46:20 発信元:122.16.62.231
1969年2月12日、ヤマハのテストコースでトヨタとヤマハの共同開発によって生み出された「トヨタ7」でテスト走行していた福沢幸雄は、謎の事故死を遂げた。
彼が運転する「トヨタ7」は直線の「高速テスト区間」を通過したあとに突然安定性を失い、直線でハーフスピンするという信じがたい挙動を起こし、路面に濃いタイヤのスリップ痕を残してコースを外れ、コース脇に設置されていた標識の支柱に激突炎上した。
死因はクラッシュによる脳挫傷と発表されたが、司法解剖で確認されたわけではなく、クルマが20分間燃えた末の焼死ではないかとの疑いも残されている。
なぜなら、トヨタ関係者が消火に駆けつけた地元消防団員が現場に向かうのを阻止し、一切の消火活動を封じてしまったのだ。20分もの間、燃え盛る炎をトヨタ関係者は消そうともせずに放置していた。福沢幸雄がその炎に包まれているというのにだ。
トヨタは警察の現場検証に対してさえも「企業秘密保持」との表向きの理由から、事故車両を早々と撤収し証拠隠蔽を図った。事故にまつわる証拠品はすべてトヨタが持ち去っており、現場検証するはずの静岡県警袋井警察署は写真撮影さえしなかった。
さらにトヨタは証拠資料として事故車両とは全く違うタイプのレーシングカーの写真を提供したり、また事故原因については、「車両側ではなくドライバー福沢幸雄に非がある」と主張するなど、一方的で大変杜撰な対応であった。
そのためクルマに重大な欠陥があったのではないかなど、事故を巡ってトヨタに対する様々な疑惑が浮上している。
トヨタによる卑劣な事故隠蔽工作により、事故を刑事事件として立件する道を絶たれた父の進太郎は、原因の究明と息子の幸雄の名誉回復のため、テスト車両を開発したトヨタとヤマハを相手取り訴訟を起こした。
結果的には、昭和56年(1981年)にトヨタが遺族側に6,100万円を支払う形で和解が成立したが、事故原因の真相については、未だに謎に包まれたままである。
その後も「トヨタ7」は事故を起こし、福沢の事故から1年半が過ぎた1970年8月26日には鈴鹿サーキットで800馬力ターボのテスト中にクラッシュ。
ドライバーの川合稔が即死している。自己原因はアクセルが戻らなかったことだったのだが、責任者の河野は記者団に対し「ドライバーのミス」を強調していたという。