10/04/26 23:07:30 xglZFSPZ0
>>856
私の世の中の関わり方ですが、ネット上などの言葉のやり取りはある程度わかっているもの同士や余程の出会いでない限り、
出来る事はその場の癒しぐらいのことですからそれだけではあまり意味がないと思っています。
自分が得た事に情けなさを感じず、命をもたらすのは現実での具体の実践だけです。
>>799のように
>彼らは最初から悪だったのでしょうか。
>悪も含めて愛でつつんで、いつしか悪も自己の愛に目覚めて喜びを共有できたら世界はどれだけすばらしいでしょう。
けれど暴力団。これはほぼ無理な実践だと考えています。昔の娼婦や泥棒などは私たちの生活と同じに考えてはなりませんね。
蛍の墓は知ってられると思うのですが、節子の為に畑から食べ物を盗む、それに近いものであって悪人ではないわけです。
ですから、昔のお坊さんがみんな悪くないのだよ、仏様のみな子供で同じ様に愛されている、平等だよ、
といった話が説得力をもち、それが衆生の支えになったような世の中ではないのです。少なくとも日本は。
そして精神面でのことはイエスも釈尊もほぼ30歳です。それまでぐらいに用意されていて、線引きです。
例外はないと観ています。たとえはっきり現れるのがそれよりもうんと遅くとも知らないで準備しているような期間が
心身がとてもスピードをともなって若々しく成長している間です。
マザーテレサは愛をかける対象を決めています。悪人を愛で救おうというのではなく無駄がないのです。それは実践したならはっきりと分る事です。
柔軟な25歳ぐらいまでにも何ともならずそして飢えて硬化してしまった大人にいくら個人が優しさやお金をつぎ込んでもつぎ込んでも無駄です。
ネットではまだ関係は誤魔化せても、実際に個人で関わったとしたなら相手の為にもならないほど病んでいます。
もしその人がそうなるだけの理由がわかったなら、社会や教育レベルを上げる人材育成や大きな範囲で社会的な表現活動などの取り組みをしている人々と
連帯して、視線を個人関係から社会に向けて実践することが間接的であっても具体のその個人への愛となります。