10/01/31 00:14:36 n7VFlZsa0
>>702 掲示板は言葉のバトンだからね、少し私も参加してみる。
それと規制を解いてくれた2ch管理の人、ありがとう。
>「ソレ」が「存在しない」と言う事は、「ソレ」は「存在する」と言っている事と同じです。
>>694さんは女性かな、そんなマインドを感じるね。上記の言葉を自分なりに紐解いてゆくと
「存在しない」と消滅させる垣根を感じている時点で、ソレは「存在」していた事の証明にもなる。
>究極の現実とは、究極の「意味の集合」です。
意味とは、何も「役に立つ」からそこに意味が生まれてくるのではないと私も同様に感じる。
何気なく枯葉が落ちているだけで、枯葉がある事自体に奇跡を感じる瞬間がある。
枯葉がどうして枯葉としてそこにあるのか。何故、そこにそのような形を持って見せてくれているのか。
枯葉がたとえ、何かに使える訳ではなくとも、それはその人の中で改めて再生されるエネルギーの流れ。
だから、「言葉」だけではなく、物言わぬ佇みの中において意味は幾分にも再生される。
さえずる小鳥が何をしてくれる訳ではない。でもそこでさえずってくれていた事は、
自らが再生された瞬間に、喜びになる。だからこそ>>694のこの↓文が生きてくる。
>究極の「意味の集合」には「無意味」も含まれています。
意味と無意味は同居していると思う。人との出会いをビジネスと捉える人にとって、
木の葉など糞の役にも立たないかもしれない。でも緑の育たない砂漠の中で、
木の葉一枚に出会う事で、救われたような気持ちになる人も居るかもしれない。
結局は、全て無意味って事でしょ、と一言で済まされる考えもあるかもしれないが、
その類の喜びがわかると言う事も、「無意味」の中から宝を見つける心の才能だと思う。