09/12/22 20:44:05 C+T6Nknl0
たろすけさんが>>463で語った
>覚醒者の語るその『無一物、無執着、無心』という観念を演繹的に有効なtool、
あるいは有益な戒め〈戒律的なもの〉と履き違えてしまう-そんな危険性を孕んでいる
書物の恐ろしさを述べているのです。
この一節と、>>481の薺さんの
>難しい一言も解りやすい一言も同じように「誤りでもないが正解でもない」となります。
を改めて読むと、
「我が言の葉の意味を受くる力のある者のみ、我が言葉を受けよ」
という古代のギリシャ人の言葉(確か)をふと思い出しました。
恐らく「言葉の字面を追わずに、その向こうに突き抜けていけ」という意味なのでしょうね。
両人がおっしゃるように、書物というのは「万人が読むことができる」という利点も
ありますが、「相手を選ぶことができない」という決定的な危険性がありますね。
これは何も禅書やその他の宗教書についてのみ言えることではなく、アセンションについて書いてある本にも
共通して言える事ですが。