09/12/22 08:21:39 C+T6Nknl0
それなのに、あなたの不理解の故に起こる現象をあたかも真理の様に謳う。失礼ですが、これは恥ずべき事です。
あなたはきちんと『理』を持って考えられ、優れた表現力をお持ちなのに、これは残念な事です。
では、その「境地」とは何なのか、と聞かれるかもしれません。
しかしそれを言葉で表すのは不可能であり、自信で体感するしか道はありません。
それはキリンを見たことがない人に、写真を使わずに言葉だけで説明するようなものです。
例えば、私が誰かにキリンの特徴を述べます。それは背の高い動物であり、首が長く、黄色い体に黒の斑点がある。
草を食べ、アフリカの草原で暮らしている。その他もろもろの特徴を挙げたとします。
しかし、彼はこの説明を聞いて、「本当に」キリンを知ったことになるでしょうか?
彼が本当にキリンを「知る」のは、動物園、もしくはアフリカで実際にキリンを見、「ああ、これがキリンなのか」と納得する時ではないでしょうか?
これが禅僧達が多くを語らずに、簡潔に物事を述べる理由です(無心、解脱、空、など)。
結局『無心』『無一物』こういった境地は決して「理」で到達できるものではなく、自分の「体感」として味わうしかないのです。
そしてここにこそ、「書物を遠ざける」真の理由があり、またここにしかないのです。
『無心』『無一物』観念自体に落ち度はありません。こういった境地を理解するに至らない人の側に落ち度があるのだと知って下さい。