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ホステス
東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとなる。
1959年に、インドネシアへの日本政府の開発援助に伴い、東日貿易の秘書として、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。総合商社の丸紅からスカルノへの「夜のプレゼント(娼婦)」というような意味があったといわれている。
この一件に当時昭和のフィクサーである児玉誉士夫が関わっていたとされ、児玉は巨額の謝礼を得たという。
[編集] 大統領第3夫人
スカルノ当時の日本外交や資金援助の取り付け等をスカルノ大統領は非常に重要視していた。
1962年にスカルノと結婚。妾の立場であったが、1年後に4人の夫人の内の第3夫人になる。
しかし、日本の家族である実弟が彼女の立場を理解できずに悩み、それが一因で自殺したと言われており、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白している。
スカルノとの結婚以降は、インドネシアへの経済援助(ODA)や、日本への資源輸出などに積極的に関わった。
[編集] スカルノ失脚
しかし3年後の1965年9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚。
かわりにスハルトが大統領となった。デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際立場上の理由で断念。
スカルノ大統領の第二夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った。
日本に帰ってからは福祉目的をうたった詐欺パーティ等で荒稼ぎをしている。