10/03/05 11:54:06
不況で失職し、再就職を断念した日系外国人に帰国費用を給付する
国の支援制度が5日に申請受け付けを終える。
昨年4月の制度開始以降、支給を受けて帰国したのは予定も含め全国で2万人超。
しかし制度利用者を追跡取材したところ、帰国後も仕事に就けずに「日本に戻りたい」と
悔やむ人たちもいる実態が浮かび上がった。支援制度は一定のニーズがあったが、
困窮の解決にはつながっていないともいえそうだ。
帰国まで10年間を浜松市で過ごした女性(31)は、昨年6月に申請した理由を
「仕方がなかった。仕事はないし、このままではホームレスになると思った」と振り返る。
女性は夫(33)と市内の自動車部品製造工場で派遣社員として働いていたが、
昨年3月末に失職した。
4人の子どもを連れてブラジルに戻って半年以上だが、夫は今も求職中だ。
女性は育児をしながらアルミ缶を集めて売り、週末は夫と警備員のアルバイトをしている。
サンパウロに持ち家があるので家賃負担はないが「生活は厳しい」と嘆く。
気掛かりは子どものことだ。4歳の娘は保育施設になじめず「日本に帰りたい」と泣く。
支援制度の利用は、3年間再入国しないことが条件。女性は「私も戻りたいが、3年間は長い」と漏らした。
昨年6月に浜松市からブラジルに帰国したタナカ・クリスチアネ・ヨシエさん(21)も
「人生で最大の間違いだった。可能ならすぐにでも日本に戻りたい」と言う。
失職した父親らにサンパウロの大学への進学を勧められ、給付を受けて単身帰国。
両親を浜松に残し、大学に通う4年間のつもりで、ブラジルにいた姉と2人暮らしを始めた。
大学では指圧や鍼灸(しんきゅう)の勉強をしているが、「治安も悪くて怖い。暮らしに
全然慣れない。日本で勉強すればよかった」と後悔ばかりが口をつく。
「再入国できない間に日本の法律が変わって、日系人の資格で戻れないようになったと
したら…」。こんな不安もよぎる。
一方、1996年に来日し首都圏で主に自動車部品製造の仕事をしてきた
フェハル・ウィリアン・ヒデキさん(29)は「帰国費は本当に助かった」と感謝の気持ちを語った。
群馬県伊勢崎市の工場を昨年8月に辞め、10月にサンパウロに戻った。
一定の蓄えがあるため、今は大学でシステムエンジニアを目指して勉強している。
再入国の制限にも「今の日本は『デカセギ』で稼げない。今のところ戻るつもりはない」と答えた。
支援制度による支給額は本人30万円、扶養家族1人20万円。
静岡県の2月末までの申し込み人数は4437人に上る。
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