09/12/09 12:26:42
ソースは
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
[1/2]
京阪神を中心に展開し、安価と庶民的な雰囲気で親しまれている創業120年の老舗食堂「力餅食堂」が、
存続の危機に立たされている。力餅食堂は親方から弟子へ、のれん分けを繰り返して増え、最盛期の
昭和60年代には約180店。ところが、近年、後継者不足などで店舗は減り続け、約100店に。
危機感を強めた店主らは、CMによるPRや新メニューの開発に乗り出し、生き残りへの道を模索する。
■コンビニない時代、満席
人通りが途絶えた夕方の商店街で、交差する杵が染め抜かれたのれんが寂しげに揺れていた。
大阪市旭区の商店街にある力餅食堂森小路店は約55年続いた店を今月末で閉める。
店主の若木善博さん(59)は「お客さんが減って、これ以上続けても…」という。
店は但馬地方出身の父が開店。チェーンの飲食店もコンビニ弁当もなかった時代、店は会社員や商店主、
買い物途中の主婦でいつも満席だった。両親は仕事に追われ、子供のころはほとんど相手をして
もらえなかった。それでも食堂の熱気に押されるように、若木さんは大学卒業後、修行を経て店を継いだ。
しかし、ファミリーレストランやファストフード店に押され、商店街そのものからも客足が遠のき、
店は活気を失っていった。この2年で両親も他界。若木さんは「息子も継がんし、そろそろ潮時かな」という。
■3知事も祝辞
おはぎや赤飯の店頭販売がトレードマークの力餅食堂は、明治22年に故・池口力造氏が兵庫県豊岡市で
創業。当初はまんじゅう店で、後に京都市内に移り、「力餅」と名付けたあんころもちを中心に
ぜんざいなどを出す“甘党食堂”だった。大正時代には丼物やめん類が中心の大衆食堂に。
のれん分けを許された従業員が次々と京阪神で独立。高度成長とともに店は急増した。
昭和43年に独立した大阪力餅組合長の小幡俊郎さんは「店主はほとんどが創業者と同じ但馬地方の出身者。
親戚(しんせき)のツテを頼って出てきて、みんな開業を夢見て修行を頑張った」と振り返る。
力餅食堂の特徴は独特ののれん分け制度にある。新規出店が許されるのは、親方の元で8年以上働いた
従業員だけ。出店の際は資金や場所選びを店主らでつくる組合がバックアップし、開店時は周辺の店主や
従業員が応援に駆けつける方式で昭和60年代には180店を数えた。昭和63年発行の100周年
記念誌には大阪、京都、兵庫の知事が長文の祝辞を寄せている。
-続きます-