09/05/19 00:09:35
(続き)
―しかし、まだ院生や博士の数は足りない、欧米先進国に比べ1000人あたりの博士の数は日本は少ない、と指摘する人もいます。
橋本 よく耳にしますが、不毛な議論です。アメリカの「博士」と日本の「博士」とは質がまったく異なります。
同じ「博士」という言葉で議論するのは建設的ではありません。研究業績を出す力とマネジメント力など総合力をみると、
アメリカの博士の方が圧倒的に優れています。
その大きな要因は「競争」にあります。アメリカではまず大学院に入る際、3倍ぐらいの厳しい選抜をくぐり抜け、
さらに厳しい勉強で鍛えられドロップアウト組が結構出ます。博士号を取れるのは半分ぐらいでしょうか。
一方、日本の院は、誰でも入れて誰でも博士号を取れるといって過言ではない、ぬるま湯のような状態です。
入るときの倍率は0.7倍、そして入ってしまえば9割ぐらいは博士号を取ることができます。
よく「日本の大学は入るのは難しいが出るのは簡単」と言われてきましたが、今の大学院は入るのも出るのも簡単というわけです。
こんなに違いのある人材を同列に並べ、数だけ問題にしたところで、何も解決しません。
・文系の場合、就職できないのは自己責任
―就職できないのは、コミュニケーション能力がないなど、院修了者本人に問題があるのだ、とする「自己責任論」も耳にします。
橋本 まず理系の話をします。自己責任論は間違いです。この問題は明らかに、就職という出口のことを
きちんと考えないまま、しかも学生たちには明るい希望があるかのように誘導した国策の誤りです。
少子化が進む中、大学院生を増やすことで関連予算枠を守り、そして自分たちの影響力を維持しようという
文部科学省の「裏ミッション」だったのではないか。私が仕事で接する企業や研究者、他省庁の人たちからそんな話を聞くこともあります。
―文系についてはどうですか。
橋本 文系のケースでは全く逆で、就職できないのは自己責任だと思っています。
文系で修士・博士課程をとっても就職が厳しい状況は以前から分かっていたことで、それが好転する見込みがない事も明らかでした。
学部を卒業する際に就職が厳しい時期だったため、経済情勢の好転を待って院へ進む、というパターンが結構あったと言われていますが、
文系の場合はその議論は不毛です。その判断の結果責任は自分にあると言われても仕方ない気がします。
法科大学院の定員は新しい問題ですが、こちらは早くも大幅削減の見通しが報道されています。
―大学院生数が多すぎることの弊害は、当人たちの就職問題以外にもありますか。
橋本 日本の研究のクオリティが低下していきます。低競争の中に身を置いていると、トップの層の堕落も始まります。
研究費がトップ層に十分に回らない可能性も出てきます。
最近接した理系の大学生からは「博士課程にいくと人生終わる」と、博士課程に進んだ先輩を見ての感想を聞かされました。
こうした空気が広く蔓延するのは日本のためになりません。院生数の総枠削減と適正配置を真剣に検討すべきです。