08/12/10 15:56:10
ソースは
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
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世界的な金融危機の影響で増加を続ける“派遣切り”。「このままでは平成21年を迎えられない」
…契約を解除され、仕事を失った派遣労働者の窮状を訴える声は、年の瀬が近づくとともに大きく
なっている。三重県の駅構内には、蓄えもないまま派遣先の寮から立ち退きを求められ、
ホームレス同然の生活を余儀なくされた50歳の男性の姿があった。「屈辱感と寒さで…」。
体の震えはなかなか止まらなかった。
「申し訳ないが、今回の契約満了をもって終了とさせていただきたい」
木枯らしが街を吹き抜けた11月半ば。三重県四日市市の大手メーカー半導体工場に勤務していた
男性(50)は、登録していた派遣会社から今月末で終わる雇用契約を更新できないと告げられた。
工場では秋ごろから業績が急速に悪化、約80人いる派遣労働者との契約を打ち切る方針が
打ち出されたのだ。
ほんの数カ月前までは、“次”の職場を斡旋(あっせん)してもらえた。だが、派遣会社の担当者は、
無情にこう続けた。「こちらでも探してはみますが、なにぶんこの情勢ですから…ご自分でも
探してください」。事実上の解雇通告だった。
男性は、ハローワークで紹介された約20社を回った。「年はいっていますが体は丈夫です。
使ってください」。必死に訴えたが、どこの採用担当者も判で押したように同じ反応だった。
「35歳ぐらいまでならなんとかなるけど、その年齢ではね…」。すべて冷たく断られた。
工場の寮からは退去を余儀なくされた。所持金はおよそ8万円。身の回りの品を詰め込んだ
スポーツバッグ2つを手に、駅構内で雨露をしのぐ生活が始まった。初めて野宿をした夜は、
「寒さと恥ずかしさ、屈辱感で思わず涙がこぼれた」。
鹿児島県出身。大学卒業後、福岡市の市立中学校で社会科教諭をした。学校の管理職と保護者の
板挟みに悩み、平成元年に退職。情報技術系の専門学校に講師として再就職したが、少子化の
波が押し寄せ、16年に閉鎖。妻とも離婚した。
この年、当初は専門性の高い職種に限られていた労働者派遣法が製造業にも解禁され、大勢の
派遣労働者が市場に生まれた。40代半ばになっていた男性も「一から仕事を始めてもある程度の
収入が見込める」と、「派遣の世界」に飛び込んだ。
最初の勤務先は大分の自動車工場。残業も含めて1日約12時間、重い部品を運ぶ重労働だったが、
「手取りで40万円近い月収があった」。教師時代に故郷の鹿児島に一戸建てを購入しており、
毎月返済を続けてきた。まだ300万円ほど残っているという。しかし、今の状態では、とても
支払えない。
この家には84歳になる母親が今も暮らしている。毎月少ないながらも続けていた仕送りも、
できなくなった。心配をかけたくないから、工場を解雇されたことは告げていない。
面接の交通費代がかさみ、所持金は約3000円まで減った。「どんな仕事でもいいから働きたい。
母には決まったときに連絡するつもりです」。そう力ない言葉を発した男性は、恨めしそうに
冬空を見上げた。
-以上です-