10/04/23 18:31:56
>>134
ザミャーチンはスターリンに外国への移住を願い出て許可されている。
ロシアでは伝統的に文学者の社会的地位が高く、それゆえに尊敬と弾圧を受けてきた。
スターリンは、直接的な批判をぶつけてくる作家のことは好ましく思い、寛容になった節がある。
ただ、おもねったり面従腹背的な態度をとる人間には容赦がなかったようだ。
たとえば、以下に引用するのはマンデリシュタームがスターリンについて書いた詩
ぼくらは生きている 自分の下に国家を感ぜず。
ぼくらの言葉は聞こえない 十歩先では。
舌足らずの言葉で足りる場所では
クレムリンの山男を思い出す。
太い指は 脂ぎって芋虫のよう。
話す言葉は分銅のように正確。
ごきぶりのようなひげは笑い
長靴ピカピカ光る。
周りには 細っ首の取り巻き
彼は人でなしたちの忠勤をなぶる。
口笛吹く者 猫なで声出す者 泣きごとをいう者あり、
ののしり、突っつくのは彼一人。
蹄鉄のように次々に法令を打ちつける、
ある者は股ぐら ある者は額、ある者は眉 ある者は目に。
死刑がなんであれ、口には野いちご。
その胸も広きオセチーナ
1933年にこの詩を書いた作者は流刑になったが、スターリン自身が
再審を命じて、ヴォロネジへの移住を許可されている。
もっとも、彼はその後二回目の流刑をくらって病死し、スターリンも
独ソ戦以降は作家に配慮する心の余裕を失っていくのだが。