ハワイ攻略→カリフォルニア侵攻→全米占領at ARMY
ハワイ攻略→カリフォルニア侵攻→全米占領 - 暇つぶし2ch677:1942年7月07日に米国が降伏
09/05/16 13:48:24 +Jjjbv9e
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開戦1週間後の1941年12月16日、第18師団川口支隊は、ボルネオ島北西部のミリ油田、セリア油田、ルトン製油所を制圧した。
英守備隊は油田・製油所を破壊・炎上させたが、上陸部隊は直ちに鎮火作業を行い、設備の修復に取りかかった。
復興されたルトン港からタンカー橘丸が、原油6千キロリットルを積み込み、内地に到着したのは、翌年3月22日であった。
1942年1月11日、海軍の落下傘部隊がセレベス島メナドに、2月14日には陸軍の落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下して、
それぞれの油田地帯を制圧した。軍歌『空の神兵』が流行った。
油田地帯占領とともに、日本から7千人にのぼる石油技術者が施設の復旧と操業のための要員として送られた。
また占領後のインドネシアの軍政を担当した今村均中将は、現地人を愛護する方針を徹底したため、
民衆も日本軍の製油施設の復旧に全面的に協力した。こうして南方石油の生産は順調に回復した。
開戦前1940年の原油生産高は年産1033万キロリットルであったが、
占領1年目の1942年こそ年産412万キロリットルと落ち込んだものの、2年目には788万キロリットルと回復した。
開戦時の見込みでは、南方石油は3年目でようやく250万キロリットルだったので、それを大幅に超えるどころか、
日本全体の需要量600万キロリットルを十二分にまかなえる量が生産されたのである。
ここまでは、南方石油確保の戦術は大成功だった、と言って良いだろう。
海上輸送に対する米軍の集中攻撃により、日本が戦争中に失った500トン以上の商船は約2300隻、840万トンに上った。
開戦時の船舶は610万トンと戦争中の建造344万トンの大半が海の藻屑となった。
喪失商船の60%が潜水艦、30%が航空機、5%が機雷によって沈められている。
海上輸送に従事した商船の乗組員約7万1千人のうち、3万5千人が死亡している。
商船乗組員の死亡率は49%と、軍人死亡率19%の2.6倍に達した。
昭和18(1943)年の南方石油生産788万キロリットルのうち、日本に輸送されたのは230万キロリットルだった


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