09/05/17 05:26:50
>>404
クビライからの日本招諭について大まかにまとめると、
クビライからの第一次日本招諭(1266年、正使・兵部侍郎・黒的、副使・礼部侍郎・殷弘)と
その国書と高麗からの国書をもって太宰府へ来た第二次日本招諭(1267年、高麗使臣、起居舎人・潘阜)で
その潘阜が持って来たクビライからの国書の写しが>>368-370。
第三次日本招諭は1269年初めに黒的、殷弘らを正使として高麗から知門下省事の申思[イ全]、同侍郎の
陳子厚とふたたび潘阜が対馬まで来たけど、現地の住民と悶着を起こし、そのまま引き返してしまっている。
この時、どういう訳か塔二郎と弥二郎という島民を拉致って、そのまま黒的、殷弘は申思[イ全]や潘阜ら高麗の
使者たちとともに、この二人の俘虜を大都まで連れてきている。
クビライは使者たちと謁見し、申思[イ全]を高麗国王ともども慰労し、この二人の対馬の島民も歓待して
大都の宮殿群を観覧させたそうだ。三度にわたり返牒を得る事に失敗したため、二人を送還して日本招諭の
ために使おうとしたらしい。
第四次日本招諭は同年10月頃に対馬に弥二郎らを伴った使者達が至ったものの、使者達は対馬に留め置かれ
国書はただちに鎌倉へ送られた後、幕府はこれを京都へ転送している。朝議が開かれ、蒙古への通交要求を
拒否することが決し、その旨拒絶する内容の返牒を出すこととなった。この時の文書博士菅原長成の起草に
なる返牒案が伝世しているが、幕府側がこれに待ったを掛け、返牒も不要として返事もせずに使者を追い返す
ようにした。