09/05/14 20:02:25
>>384
至元三年の国書(いわゆる「蒙古国牒状」)は「皇帝」の出した国書としてはあまり高圧的な表現が
使われておらず、中華思想に良く見られる鷹揚・寛大な皇帝像に基づいているような表現で占められているが、
鎌倉時代後期から室町時代以降、この「蒙古国牒状」はだいたい「無礼な書」だという評価が一般的だった
みたい。
(モンケが陣没した直後にクビライが帰還した開平府から南宋皇帝に宛てた国書の内容が伝わっているが、
「こそこそと裏でこちらを妨害するくらいなら、軍備を整えでもして再度の会戦の時まで首を洗って待っとれ!」
的な内容で、例の杉山センセなどは至元三年の国書に比べて、こちらの方があからさまに恫喝的で威嚇的だと
評しているようだ)
具体的に牒状のどういったところが「無礼」とされたのかは、資料中でははっきり書かれていないことが
多いが、中世史の研究者の人たちは、文末の「兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ」
という箇所が当時の人たちにかなり引っ掛かったようで、そのことから「無礼な書」と看做されたんだろう
と見ているようだ。
このスレでも関連スレでも何度か名前が出て来る『八幡愚童訓』の主だった現存する古い諸本には、
(菊大路家本や内閣文庫本など)どれも実は「蒙古国牒状」が丸ごと載せられていて、江戸時代中期の
漢学者・橘守部は『元史』からの転載だろうと断じていたっぽいけど、『元史』日本伝ではなくて、
>>368-370で上げた東大寺蔵の「蒙古国牒状」の系統のものらしい。(いずれも東大寺の国書写しと同様に
全文が載り訓点が附してある。橘守部が色々と批判した群書類従本などにもちゃん訓点付きで全文載っている)