09/05/12 18:05:10
>>347
ついでに、『元史』日本伝では「十萬之衆得還者三人耳(十万の衆、還りを得たる者三人のみ)」と書かれて
いるようだが、
同じ『元史』でも范文虎や李庭に従って江南軍に加わった相威の伝記(『元史』巻百二十八)では
「八月朔、颶風大作、士卒十喪六七(八月朔、颶風大いに作り、士卒を喪うこと十の六、七)」とか
同じく弘安の役の江南軍司令だった阿塔海の伝(『元史』巻百二十九)でも
「征日本、遇風、舟壞, 喪師十七 八(日本を征するも、風に遇い舟壞れ、師を喪うこと十の七、八)」とあり、
(阿塔海伝では、至元二十年(1283年)に征東行省丞相に遷され日本遠征に出たとあるが、弘安の役は
至元十八年なので、阿塔海伝の紀年は誤りだろう)
『元史』世祖本紀 至元十八年八月壬辰条(1281年9月13日)でも、
「詔征日本軍回、所在官為給糧。忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利、
餘軍回至高麗境、十存一二。」
とあって、『元史』での記述の傾向は、「軍の6、7割を失った」とか「7、8割を失った」、あるいは
「1、2割りしか残らなかった」という書かれ方をしているので、蒙古襲来関係の研究でも日本伝の
「十万の衆、還りを得たる者三人のみ」は誇張が過ぎる表現だというのが大方の見解のようだ。
この「三人」というのは弘安の役の報告を行った于[門+昌](うしょう)と、その後帰還した莫青、呉萬五の
ことらしい。
相威伝では「帝震怒」してただちに阿塔海に再度の遠征させるつもりだったそうだが、諫言するものが
いなかったため、相威が上奏して「今は残余の戦艦も足りないため、まず練兵や戦艦の建造など準備を固め、
相手側の防備が弛んだ頃を見計らい、風に乗じて急襲するのが万全の策かと思われます」というような
内容を述べたので、クビライは遠征を一旦取り止めとかいうらしい。(本当か?)
ただ、『元史』の他の記事を見ても弘安の役の時の指揮官クラスが明確に処罰されたというような記事は
見付けられなかった。阿塔海にしろ洪茶丘にしろ、後のナヤンの乱でクビライの親征に関わって出征して
なにがしか活躍しているから、そのあたりと関係があるかもしれないが、良く分からない。