09/05/01 23:45:58
>>245
> 高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
> その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万
それらの数字は『高麗史』忠烈王世代家、同書金方慶伝、『高麗史』完成の翌年に編纂された
『高麗史節要』の文永の役関連の記事(それぞれの記事の元宗十五年(1274年)十月条)に
基づくものなので別段問題ない。
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』忠烈王世代家)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』金方慶伝)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史節要』元宗十五年冬十月条)
・・・見て分かる通り、三箇所の記述は全部一字一句同じなのでうpして並べてもあまり意味無いけど・・
(一応『高麗史』の数十年後に編纂された『東国通鑑』にも出てくるけど、文永の役の件は
『高麗史』金方慶伝の丸写しなのでスルーしても可だろう。ただ、日本では朝鮮半島史の史料として
『東国通鑑』が十七世紀中頃から流布していて、江戸時代や明治初年まで日本での蒙古襲来関係の
研究では専らこちらがメインで使われていた。『高麗史』が蒙古襲来関係の史料として使われる
ようになったのは十九世紀も末くらいになってからなんだそうだ。大正時代に『東国通鑑』の
原文+全文書き下し本なんかもも出版されてたりする。)
「元本国」と言っても忻都率いる鳳州屯田などからの軍は高麗領北辺からやって来たけど、これは元朝の
領域としては南東の辺域にあたり、当時「腹裏」と呼ばれた大都や上都開平府などの中心地域やムカリ国王家
などの譜代五投下、チンギスの兄弟たちの後裔である東方三王家の本拠地からも外れるため、「モンゴル高原
からやって来た」的なビジョンとは大分違いけど。