09/04/26 21:22:15
>>183
『蒙古襲来絵詞』に描かれている蒙古兵は弓は大陸のそれっぽい感じなんだが、
どれも矢筒の形式が当時のテュルク・モンゴル系の遊牧民のそれとは全然違うので、
テュルク・モンゴル系のそれそっくりそのままという訳では無いように思う。
朝鮮というか当時は高麗だが、文永の役の時に日本へ派遣された部隊は、当時の高麗領の
北方に展開していた、旧金朝に仕えていた契丹人や女直人、漢人などに、モンゴル系の
投下集団が加わった種々の屯田軍が母体だったので(特に女直人が言及されている)、
むしろ、遼朝や金朝での(主に歩兵の)弓矢の形式やデータなんかを比較材料にした方が
良いんじゃないだろうか。
あと、一応オゴデイの時代に高麗に侵攻したモンゴル軍の司令官はサルタイという人物だった
んだけど、この人物、高麗の首都開京や漢陽山城を劫略した後、南に隣接する処仁城という
場所を包囲中、ちょっと油断した隙に城中に立て篭っていた坊さんのひとりに射殺されている。
(このあとモンゴル軍は高麗からすぐさま撤退し、この坊さんは高麗から恩賞を受け、還俗して
「金允侯」という名乗りを許されて江華島の高麗政府に登用されたらしい)