【蒙古襲来】元寇議論考察スレ【モンゴル】at ARMY
【蒙古襲来】元寇議論考察スレ【モンゴル】 - 暇つぶし2ch100:名無し三等兵
09/04/10 18:25:15
>>97
>>洪茶丘に嫉妬しており、もっと手柄を立てたくて駄々をこねた。
金方慶がそう言ったの?史料に残っていなければ憶測の域を出ていないと思うが。

101:名無し三等兵
09/04/10 19:51:18
誰も>>94を相手にしない軍板住人のスルースキルの高さに感動

102:名無し三等兵
09/04/11 07:37:09
>>98
ホラズムの攻略やヨーロッパ遠征ではそういう事やってたみたい。

103:名無し三等兵
09/04/11 07:38:32
>>93
ヒント:火病

104:名無し三等兵
09/04/11 08:35:47
一つ確実に言えるのは七年も前の情報のせいだったからか知らんが
文永の役は弘安の役に際しろくな役に立ってなかったってことだな

むしろ武士に余計な情報を与え、より完璧な戦略を立てさせちゃった。
なぜか攻め込まれた武士たちにとってのほうが「威力偵察」ちゃんとやった
形になっちゃった。

105:名無し三等兵
09/04/11 08:43:29
まともな地図も無い状態だから
数万の軍隊で行軍してみないと
わからないことがたくさんあったんでしょう

106:名無し三等兵
09/04/11 09:02:41
行軍して見てもわからなかったんだな

107:名無し三等兵
09/04/11 09:33:25
確かに。威力偵察にしては一番重要である敵の防御拠点である水城や大宰府を一目も見ること
なく退却してる。普通ありえないよな。

108:名無し三等兵
09/04/11 10:37:48
>>101
軍板にはピラニアさんがいないから。
ハン板や東亜でやれば爆釣だろうけどね

109:名無し三等兵
09/04/11 11:35:13
威力偵察説をとるにしても文永の役によって元軍の侵攻ルート・作戦がばれちゃった感は否めない。
博多湾の石塁が効果的だったことについてはどの立場の人も意見が一致している。

110:名無し三等兵
09/04/11 18:51:17
結局敵の手の内を探るつもりが敵に手の内を晒してしまったわけか。

111:名無し三等兵
09/04/11 18:56:44
>>110
威力偵察説をとるとしたらそうなるけど
まあ珍説の域を出てないからな

実際は普通に戦いに来て普通に敗北して普通に撤退したんでしょう


112:名無し三等兵
09/04/12 16:40:03
>>96
日本の金が欲しい
日本海を我が物顔で航行したい
日本と不平等貿易がしたい
支那も朝鮮も平らげたのでその南にある列島もくっちゃおうか

こういった理由でほっといてくれなかったんだね
でも実際元にとってもほっといたほうがよかったのにとおもう



113:名無し三等兵
09/04/12 19:52:26
かのアレキサンダーは、ただひたすらに「俺様TUEEEEEEEEEE!」がしたくて
あんな大遠征をしたという説もあるそうな。
案外、フビライさんも「地図にある国をモンゴル色に塗りつぶしていく瞬間が快感♪」
ってノリで日本やベトナムみたいな辺境を攻めたんだったりしてw
一応、東アジアのある程度正確な地図は元にあったみたいだし。


あとマジでわからないのがジャワ遠征の失敗。
イメージ的にあの辺は一瞬で征服出来そうな気がするが。

114:名無し三等兵
09/04/12 21:01:47
海があると駄目なんでね
陸なら相手首脳部に諜略したり何らかの工作員を送り込んで国力を下げたりとできるだろう

それでまず一撃を仕掛けてから
あれこれ国力減らしたり仲間割れさせたりしてから本格的侵攻するんだろうが
海で隔てられた国にはその手の方法は一切効かない

115:名無し三等兵
09/04/12 22:50:39
>>112
いや、クビライがベトナム討伐を命じたのは鎮南王トガンがチャンパー遠征の途中で立ち寄った
既に臣従していたベトナムの陳朝領内で行った無茶な物資徴発に陳朝側が耐えかねて叛乱を起こした
ことが発端。モンケの南宋遠征の途中でベトナムはモンゴル帝国に臣従していて、クビライの治世には
とっくに「モンゴル色に塗り」変えられていた。

クビライの時代でのベトナムへの遠征は、飽くまで叛乱の鎮圧とか、陳朝への懲罰、再度の臣従を
促すもので、日本のようにモンゴル帝国の羈絆とは全くかかわりが無かったところへ外征したとかいう
状態ではない。
むしろ、一度臣従しながら反逆し、何度も懲罰の遠征軍に痛めつけられながらも泥のような持久戦で
反抗を続けている点で、オゴデイ時代からモンケの時代までの高麗に近い。

ただ、モンケの時代の遠征ではワンサイドでフルボッコ状態で最終的にモンゴル側の要求を全部呑まな
ければならなかった高麗と違って、最後は疫病やら酷暑で音を上げて撤退途中の鎮南王トガンの軍を
襲撃し、雲南へほうほうの体で追い払った後、結局、陳朝は自分達の主張をほぼ丸のみさせて、元朝の
宗主権を認めて再度臣従したそうだけど。

116:名無し三等兵
09/04/13 07:44:41
なんにせよベトナムの陳興道は稀にみる名将だったようだね。
海外の「世界の名将百選」にも40位ぐらいにランクインしてる。

117:名無し三等兵
09/04/13 07:59:08
ベトナムってあっさり首都が陥落した程度だったんじゃ?

118:名無し三等兵
09/04/13 14:47:41
首都陥落した後、ゲリラ戦とベトコントラップで撃退してる。

因みに高麗が↑みたいに語られる時があるが
高麗の場合は単に王族が逃げてモンゴルに好き勝手させてただけ。

119:名無し三等兵
09/04/13 17:10:43
>>117

よく反日感情まるだしのやつが武士にくさのあまりに
ベトナムの例を持ち出してくるから
それに対して詳細に反論して行く過程で
何かベトナムはたいしたことないんじゃないかって感じの流れになるけど
実際のとこある程度は評価していい。

少なくとも負けっぱなしの国、尻尾振りっぱなしのかの国よりは比較するのも失礼なほど
健闘したといっていい



120:名無し三等兵
09/04/13 18:42:06
南宋はどうしてあそこまで、善戦できたのかな?
やっぱり、孟キョウのおかげ?

121:名無し三等兵
09/04/13 19:14:51
長江の存在も大きそうだな。
あと腐ってもやっぱり当時のアジア一の大国だったし
各都市の守りも相当堅かったようだぞ。

122:名無し三等兵
09/04/13 21:10:07
城や防御施設に篭った相手に強攻してもまず犬死

だから西征するモンゴル軍は井戸に毒を投げ込んだり
疫病を流行らせたりとあの手この手で守備隊の戦力を低下させる事に終始したわけで

中国南方だと運河が防御に加わるわけだしね

123:名無し三等兵
09/04/15 10:38:17
>>84
そもそも日本弱かった派の意見は
「主力が南宋や高麗だから武士は勝てましたねキルキル」ってのだから別に南宋が強くても
武士ツエー派は困らない

まあもっとも戦況を左右する大事な場面では武士と南宋兵は戦ってないけど
武士が南宋兵をボコボコにしたときはもう元軍が崩壊してて日本の勝ちが決定してたし。
あと南宋はもともと日本側といっていい人たちだしね。
国交もあったし元の情報に関しても南宋からの亡命者が惜しげなく日本に提供してくれてる。


124:名無し三等兵
09/04/15 12:31:04
そもそも二回とも戦闘要員としての主力は満州人だった件

兵の殆どが南宋や高麗の寄せ集めなんて説はどっから出てきたんだ?

125:名無し三等兵
09/04/15 14:18:14
洪茶丘の手勢は高麗人
高麗軍とは別に元軍の中に高麗兵もいた

>>124
満州人って元々が凄く少数だから実際は漢族だろうね

126:名無し三等兵
09/04/16 02:36:00
>>124
ほんとどっから出てきたんだって感じだが
反日君はしょっちゅう使うよね

127:名無し三等兵
09/04/16 23:07:02
>兵の殆どが南宋や高麗の寄せ集めなんて説はどっから出てきたんだ?

元寇サイトってそっちのが多いような

128:名無し三等兵
09/04/17 12:52:09
高麗兵も少なからずいた≠高麗人が主力

129:名無し三等兵
09/04/17 13:53:19
正確な数すらわかってない
15000と25000のどっちなんだろう

130:名無し三等兵
09/04/17 13:57:09
あと実際に上陸したのは総員の何割かも気になる

131:名無し三等兵
09/04/18 11:18:18
>>129
文永の役のあった至元十一年三月(1274年4月)に、東征都元帥になった忻都が文永の役の時に
率いて高麗に派遣された軍勢が1万5000だったことは『元史』と『高麗史』で一応一致している
ので間違いないみたい。これに多分、高麗の駐留軍などが加わって「蒙漢軍二萬五千」という規模に
なったみたいだけど、この残りの1万の内訳はいまいち良く分からない。
(この1万5000は五月半ばには高麗に到着している。あと、『元史』や『高麗史』の書き方だと
 どうやら忻都が連れて来た軍勢1万5000は女直軍がかなり目立っていたっぽい)

ちなみに、忻都は途中で金方慶の誣告事件に関わり、忠烈王と揉めて都元帥を更迭されたため、軍が
日本へ出発する二ヶ月前の同年八月己酉(1274年9月7日)に忽敦が忻都の代わりに日本征討都元帥
として派遣され、「京軍四百五十八人」がさらに加わったと『高麗史』の忠烈王世家に出て来る。

朝鮮史で有名な旗田巍って先生は中公新書の『元寇』って本で三別抄討伐のために派遣されていた
屯田軍5000がこの1万5000に加わって軍勢は二万になったと書かれているようだけど、『高麗史』の
忠烈王世家や金方慶伝、『高麗史節要』の忠烈王元年(1274年)の記事をちょっと見た限りでは
「三別抄討伐に使われた屯田軍5000が日本征討軍1万5000に加わった」ということを直接示唆する
記述は見付けられなかった。あるいは三別抄の首謀者たちについて書かれているという叛臣伝の方とか
『東国通鑑』(李氏朝鮮で編纂された歴史書。1484年完成。『高麗史』は1451年、『高麗史節要』は
翌1252年)あたりにそのような記述があるんだろうか。
(文永の役にやって来た金方慶や洪茶丘は三別抄討伐にも参加しているので、普通に考えれば三別抄討伐
 に使われた軍が日本への遠征に加わっても何ら不思議ではないし、むしろ自然だけれども。あと、
 旗田巍先生は『元寇』本文で博多での軍議で金方慶とやりとりした司令官を忽敦ではなく「忻都」と
 ポカミスを犯している)


132:名無し三等兵
09/04/18 11:19:27
>>130
とても気になるところ。
制圧した対馬や壱岐にも一応兵力を残しておくのが自然だろうし(ジャムチと同じく何かあったら先発した
船団から伝令の船を合浦のある半島へ送らねばならない)、博多周辺に兵を上陸させた時も船上にある程度
兵力を残しておくのは道理だろうから、『高麗史』に出て来る実戦力「蒙漢軍二萬五千我軍八千」のうち
どれだけが上陸したのか・・・ 少なくても合浦から出発した25000+8000の全てが博多に上陸したとは
考えられないけど、頼りの『高麗史』の記述でも情報量がいまひとつ足りなすぎる。

133:名無し三等兵
09/04/18 18:07:30
そういや幕府方は何人だったんだ?

134:名無し三等兵
09/04/19 03:56:10
少弐景資が率いていたのは5000ぐらいらしいが全体だとどのぐらいだろう


135:名無し三等兵
09/04/19 09:05:28
どっちにしろ文永の時は間に合わせの数で対処したからそんなに多くないはず。

136:名無し三等兵
09/04/19 10:17:33
実質、九州vs満州ってとこか。

137:名無し三等兵
09/04/19 11:20:10
まあ指揮を元がとってるんだから
配下の構成がどうあれ元軍

元はどこでもそういう軍隊



138:名無し三等兵
09/04/19 21:49:29
>>136
金建国以前から女真の数はタかが知れてるので
満州から北京あたりの北方中国人だろうな
高麗人も従来言われてた高麗軍のみでないなら万は超えるだろう

139:名無し三等兵
09/04/19 21:57:21
吉川弘文館から「戦争の日本史」シリーズ7
新井孝重の蒙古襲来が面白い

勘仲記(書いたの公家だからどこまで信用できるかわからんが)
によれば姿を消したのは27日であり1日でケリがついたのではないという
自論を展開してた

140:名無し三等兵
09/04/19 22:04:08
まあそれはいいとして重要なのは
「1日でケリがついたなら沖の船から3万を越す大軍が1日で上陸できるわけない」
と書いてあってなるほどと思ったわけだ >>129-132

沖の船から何度も小舟で往復して兵を上陸させるって確かに途方にくれる話だ

で、あと思い付いたのが元軍が船に戻ったのもこれが原因かと
兵と少量の物資ぐらいしか沖上げできないとなると
陣地も構築でなきない状態で夜襲を警戒するより沖に戻るのはありかと
浜の兵力が数千の兵力ならおかしい話ではない

141:名無し三等兵
09/04/19 22:07:34
この本は日本側の弓が相変わらず射程が半分もないとか書いてあったが
いろいろ注目すべき点とか見つかったよ
他に一つあげると
威力偵察説は間違いで単に幕府を交渉の場に引きずり出すだけだった説で
このほうがあっさりした戦闘も納得がいくな

142:名無し三等兵
09/04/20 09:12:38
>>141
文永の役後、元の使者はことごとく殺されてるし、交渉の場に引きずり出せてないだろ。

143:名無し三等兵
09/04/20 09:56:09
まあその説を仮に支持するとすれば
交渉の場に引きずりだすはずがぼろ負けして失敗したってことだろ

やつらの頭の中にある日本への介入目的の中に日本に不均衡貿易を迫る腹づもりが含まれていたであろうことは確か
というよりそもそも元は日本に「俺に挨拶しにこい、俺が上だと認めろ」という国書を送ってきている


それを交渉とかきれいな言葉で飾るにせよストレートに侵略というにせよね


144:名無し三等兵
09/04/20 15:20:36
まったく交渉に応じないから
とりあえず脅すかってつもりの派遣じゃないのかな
だからあっさり1日で帰ったと
もとより征服でもなければ威力偵察でもないと

万の軍勢見れば態度が変わると甘く見ていたんだろう

145:名無し三等兵
09/04/20 19:41:02 KFAk5pZw
>>132
自分が見た初心者向けの本でも
兵力分散に触れてた
対馬や壱岐で惜しげもなく矢を消費し
島内で何日も山狩りした結果
博多での戦闘を1日で切り上げた
なんて見解もあって
初心者向けにしては目の付け所が上手いとオモタわ

146:名無し三等兵
09/04/20 20:36:58
こうやってみると益々何がしたかったのかサッパリわからんなw

147:名無し三等兵
09/04/20 20:54:12
>>145
それあるかもな。対馬と壱岐で張り切りすぎて、本土での戦いで息が続かなかった
っていうのはあり得そう。

148:名無し三等兵
09/04/21 02:35:41
日本側から出兵した白村江や朝鮮出兵の例を見れば分かるとおり、手を出したほうが苦労する条件下だからな。
蒙古の意図がどこにあったにせよ、失敗は宿命だろ。

149:名無し三等兵
09/04/21 07:56:03
>>147
向こうは日本の地理を、あんま正確に把握してなかったみたいだし、その線もアリかも。

150:名無し三等兵
09/04/21 10:49:25
その線で行くと元は我々の想像する以上に頭の悪い国だったことになってしまうな

151:名無し三等兵
09/04/21 14:19:39
なんだかんだ言っても中世なんだしそんなもんじゃね?

152:名無し三等兵
09/04/21 19:12:20 3PjceMMb
って事は、マルコポーロが聞いて帰ったガセネタ信じてた可能性もあるのかw


153:名無し三等兵
09/04/22 03:53:07
がセネタ?
少なくとも中世日本は有数の金産出国、銀産出国だぜ?

154:名無し三等兵
09/04/22 05:30:37
>>145
『八幡ノ蒙古記』の対馬、壱岐での戦闘の経過だと、船団から一千人だか数百人ほど上陸して、
対馬や壱岐の守備部隊は蒙古側の兵をいくらか討ち取ったりしたものの、結局奮戦空しく全滅した、
的なことが書かれてあるみたい。
この書き方を信じるなら、派遣軍の戦力全部を使って攻め落としたわけではなく、全体の戦力を
ある程度温存しつつ前衛部分で攻め落とさせていた的な拠点攻略の常道に沿った作戦で戦ってた
ような雰囲気だけど・・
やはり初めから博多上陸からそんな長居するつもりの装備じゃなかったんじゃないかと思える。

>>150
『東方見聞録』あたりのマルコ・ポーロの記述は、当時の南宋とか華北(あるいはクビライの宮廷?)
での伝聞によると、クビライのジパングへの軍派遣の有り様はこうだった的な感じなので、日本への
派遣自体には情報提供も含めてマルコ・ポーロは関わってないと思う。

明代に編纂されたらしい、『元高麗紀事』って資料によると耽羅島で捕虜になった連中から、太宰府を
攻めるには二、三万の兵力が必要だとか言ったため、日本へ派兵するときにはこの規模が採用された的な
記事があるんだとか。
これも含めて、『高麗史』や『元史』の日本遠征に関わる記事では、クビライ政権での日本遠征についての
方針決定には高麗政府や范文虎みたいなクビライ側に下った南宋系の官僚とか、日本に「そこそこ」近い筋
からの情報や提言に依拠している部分があるから、日本と殆どかかわりが無いいわゆる「色目人」が意見する
余地はまず無かったと思う。(蒲寿庚みたいな海洋部門に大きく関わってる連中とか、日本遠征のために
兵力を供出しなければならない地方の官僚とかだったら当然違うだろうけど)


155:名無し三等兵
09/04/22 05:43:43
>>145
文永の役後の元朝から何度も使者を送っては処刑されるって情勢は、
「軍を送りつけたんだからこちらはいつでも領土征服出来る準備がある。ともかく何かしら返事くらいしろ!」
という元朝側の態度(本当は南宋を征服しないと軍の派遣は継続出来ない)に対して、
「使者も斬ってるんだから交渉決裂だろ、察しろ!」という無言のやりとりだった感じがする。
日本には大陸的な交渉のアプローチが全然通用していなかったような、意思疎通のギャップみたいなものを感じる。


156:名無し三等兵
09/04/22 05:44:28
>>155の続き。

>>149
明代とか李氏朝鮮で作られた混一疆理歴代国都之図やその系統の地図を見ると、中国本土や朝鮮半島のすぐ
隣国なのに、日本の地理がちゃんと描かれている物は以外と少ない。(ひどいのだとサツマイモみたいな島が
3つ並んで、そこに武蔵とか近江とかの国名の書かれた枠がめちゃくちゃに配置されていたりする)
元朝後期に編纂された『宋史』あたりの日本伝だと、陸奥国から日向国とか日本の領内にある地域名の情報自体は
知られていたようだけど、具体的な位置関係は良く分かっていなかったんじゃないかと思わせる部分もある。

中~大規模な遠征を行うなかで具体的な地理情報は現地で徐々に資料を接収していけば、決定的な情報不足を補える
んではないか、という思惑もあったんじゃないだろうか。

チンギスの時代のホラズム遠征とか西アジア遠征では、ホラズム周辺出身の官僚たちが既にモンゴル宮廷で
働いていたし、当時は中央アジアからモロッコのあたりまでを扱ったアラビア語やペルシア語で書かれた
地理書や地図が結構で回っていたし(あまり正確ではなかったけどインドネシア方面の地理も知られていた)、
中国も宋代に華北から江南全域をカバーする地図や地理書が、製作されていて、ことおおよその地理情報に
関しては殆どの場合、実はモンゴル帝国側は事前に大規模な遠征先での地理情報には困らない環境にあった。
(バトゥの欧州遠征の場合はそこら辺は謎。ウィーン郊外で撃破されたモンゴル軍の小部隊にイングランド人の
 使者が混じっていて、バトゥの遠征には彼の情報が役立ったとかいう話があるそうだけど)

ただ、日本遠征の場合、金朝や南宋で行基図みたいな地図が大陸にどれだけ知られていたかは分からないから、
恐らく日本についての具体的な地理情報は1から収集しなければならなかったのかも。


157:名無し三等兵
09/04/22 09:29:37
>>156
日本の地理情報を得るためにしては、明らかに進軍行程が短すぎる。
わずか博多までの進軍じゃあ、日本の地理なんて全くわからない。
日本の地理を知ろうと考えていたならば最低でも、水城や大宰府まで
の行程は抑えておくべきだったんじゃないかな。それに間者で知れた
可能性もないことはないが、そもそもそんなことするぐらいなら軍なんて
派遣する必要もないしな。

158:名無し三等兵
09/04/22 13:43:17
大軍を使ってのデモンストレーションでしょう
対馬や壱岐や鷹島への上陸が何故必要だったかとかも考えてみるとさ

159:名無し三等兵
09/04/22 20:35:53
で、結局何がしたかったんあいつら?

160:名無し三等兵
09/04/22 20:45:06
あまりにも元軍が文永の役で得たものが少ない(むしろマイナスに働いてる)ところを見ると、普通に元軍が敗北したんじゃないか。
文永の役後、鎌倉幕府が大陸攻めを計画したり、元が文永の役の3倍以上の14万もの大軍団を派遣したところを見ると、鎌倉武士が文永の役で敗北した
にしては不自然すぎる。

161:名無し三等兵
09/04/22 22:29:07
>>160
まあ、そうだろうね。
文永の役について言うと、むしろ早い段階で退却を決断した元軍の判断を褒めるべきだ。
万単位の軍を一夜にして撤退させるのは容易なことではない。
仮に元軍が進撃を続けて、水城の守りを突破し大宰府を占領することが出来たとしても、
鎌倉からやってくる日本軍主力と決戦し勝利するのは無理だ。
結局あの時点で退却するのが一番傷が浅いし、「日本軍10万と戦いこれを破った」といった
大本営発表をすることも出来る。

162:名無し三等兵
09/04/22 23:22:51
少し上のネタだが、上陸がそれほど多数でないなら撤退も簡単では
夜になってからの撤退だよね
朝よりも沖の大船と陸を往復する小船は多少難儀するだろうし

あともうひとつのネタの既に矢を消費したってのも影響してそう

163:名無し三等兵
09/04/23 13:29:09
>>161
そもそもあの時点で博多周辺の武士は1万程度しかいないのに
10万ってのは…モンゴルちゃんもよくまあ大ぼらふいたもんだよね

164:名無し三等兵
09/04/23 14:17:39
中国ってのはそういう文化だ。
まして島国でまったく実情がわからないんじゃね。

165:名無し三等兵
09/04/23 19:17:46
>>163
そもそも当時の鎌倉幕府に十万も兵力動員する力あったんかと。

166:名無し三等兵
09/04/23 21:40:04
>>165
鎌倉時代の日本の人口は約1000万だから兵力は結構あっただろう。
問題は兵站だな。

167:名無し三等兵
09/04/24 11:40:05
>>165
食いもんの心配を無視すれば20万ぐらいはいけるんだそうな
そのために四年も前から北条ちゃん政敵潰しにがんばってたやん

>>166
武士じゃないけど防塁の建築スピードから見てもとりあえず「男ならだれでもいい」っていう
条件下なら相当な動員をかけれるみたいだな

168:名無し三等兵
09/04/24 11:53:06
>>165
弘安の時は関東から10万の軍勢が派遣された筈。
現地に到着する前に決着がついたけど。

169:名無し三等兵
09/04/24 19:33:04
Wikipediaに威力偵察説が書かれてるが、偵察ですらない単なる示威行為だと書いたほうがいいな

170:名無し三等兵
09/04/24 19:51:30
威力偵察いいたいだけちゃうんか説

171:名無し三等兵
09/04/24 23:18:58
威力偵察→相手の実力を探るどころか、完全にこちらの手の内晒しちゃいました。
示威行為→調子こいて対馬や博多で虐殺したら、相手はビビるどころか完全にマジ切れしちゃいました。


矢数の件にしてもそうだが、変な理由つけるより
普通に大宰府攻略して足場固めしようとしたんだけど
武士に阻止されちゃいましたーの方がまだ元の面目が立ちそうだがな。

172:名無し三等兵
09/04/25 01:03:52
元がどの程度本気だったかがわからんよな
示威行為が一番自然に思える

173:名無し三等兵
09/04/25 01:53:03
>>171
結局どの説とっても元軍の思い通りにはならなかったんだな。

174:名無し三等兵
09/04/25 03:07:52
示威行為だからって手を抜くようでは所詮何にもならんわなw
事実なら元はますますダメ軍隊に格下げだな

普通に戦って普通に負けたってのが実は一番元にとっては都合がいい
まあここで元擁護してる連中はほぼ100%モンゴルにはこれっぽちも思い入れがない
単に武士の足引っ張りたいだけの人だから元軍がいくらしょぼい評価になっても構わないんだろう

175:名無し三等兵
09/04/25 04:13:29
示威説は昔からあるしネットでも見るけど、今後はわけのわからん威力偵察よりこっちが主流になるだろう

176:名無し三等兵
09/04/25 04:45:14
示威行為だからって本気じゃないっていう論調はおかしい
本気でやらなきゃ示威にならねえっつうの

177:名無し三等兵
09/04/26 09:56:33 lF2ldN45
和弓は、動物の腱を使った合成弓であるモンゴル短弓より威力も射程も劣る。

178:名無し三等兵
09/04/26 11:11:45
でも実際は和弓にかなわず敗走しているけどねw

179:名無し三等兵
09/04/26 11:15:37 Dps5b5yN
武器がよくても運用が下手じゃ意味ないけどね
-----------------------------------------------------------------

URLリンク(record.museum.kyushu-u.ac.jp)
URLリンク(record.museum.kyushu-u.ac.jp)
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

URLリンク(record.museum.kyushu-u.ac.jp)
さらに敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

-----------------------------------------------------------------

和弓圧勝だなこりゃ




180:名無し三等兵
09/04/26 12:31:47
>>177
威力も射程も遥かに上となると、単純に考えると
2~3人張りが普通だったの和弓より張力が遥かに上と言うわけだが
そんな張力に耐えられるような材料が中世にあったの?
まさか現在の競技用アーチェリーと弓道を比較してるんじゃないだろうな?

181:名無し三等兵
09/04/26 13:26:51
鎌倉時代後期になると和弓も高級品は鹿を使った合成弓つくったり
竹をカーボン加工(驚)したりしてたんだよな

182:名無し三等兵
09/04/26 14:27:28
>>177
モンゴル人が指揮官ぐらいしかいない状態でそれを出しても意味が無い
高麗の弓と比べろよ

183:名無し三等兵
09/04/26 15:29:16
高麗から派遣された兵はともかく、蒙漢軍はちゃんと
モンゴルの正規軍の装備してたんじゃないの?


余談だが英語のウィキだと、朝鮮弓はトルコ弓並みの性能に捏造されてるw

184:名無し三等兵
09/04/26 17:10:55
wikiもブログと変わらんな

185:名無し三等兵
09/04/26 17:15:35
で、実際の朝鮮弓ってどうなの?
酷使様やサヨによる物じゃないちゃんとした評価が知りたいんだけど。

186:名無し三等兵
09/04/26 18:29:54
大陸式の合成弓で、それなりに優秀だったとか。それ以外はわからん。
てか朝鮮半島って、両斑の事もあるのか知らんが
兵制とか装備に関する記録が殆ど残ってないからわからんのよ。

187:名無し三等兵
09/04/26 19:45:57
江戸時代
ちっこい弓で「あたーりー」とかやらせる娯楽施設があったが
あのおもちゃの弓よりはつよいんじゃね


188:名無し三等兵
09/04/26 20:19:07
短弓のいいところは連射できることだな

189:名無し三等兵
09/04/26 21:22:15
>>183
『蒙古襲来絵詞』に描かれている蒙古兵は弓は大陸のそれっぽい感じなんだが、
どれも矢筒の形式が当時のテュルク・モンゴル系の遊牧民のそれとは全然違うので、
テュルク・モンゴル系のそれそっくりそのままという訳では無いように思う。

朝鮮というか当時は高麗だが、文永の役の時に日本へ派遣された部隊は、当時の高麗領の
北方に展開していた、旧金朝に仕えていた契丹人や女直人、漢人などに、モンゴル系の
投下集団が加わった種々の屯田軍が母体だったので(特に女直人が言及されている)、
むしろ、遼朝や金朝での(主に歩兵の)弓矢の形式やデータなんかを比較材料にした方が
良いんじゃないだろうか。

あと、一応オゴデイの時代に高麗に侵攻したモンゴル軍の司令官はサルタイという人物だった
んだけど、この人物、高麗の首都開京や漢陽山城を劫略した後、南に隣接する処仁城という
場所を包囲中、ちょっと油断した隙に城中に立て篭っていた坊さんのひとりに射殺されている。
(このあとモンゴル軍は高麗からすぐさま撤退し、この坊さんは高麗から恩賞を受け、還俗して
「金允侯」という名乗りを許されて江華島の高麗政府に登用されたらしい)


190:名無し三等兵
09/04/26 21:28:57
>>189の続き。

弓矢について『蒙古襲来絵詞』や『八幡愚童訓』でも両書に共通しているのは「矢さきを、そろへて
雨のことくに、いけるに」とあるように蒙古側の射撃の量が多い点なので、違いはそこら辺にあるのでは
ないか。「蒙古か矢、みしかしといへとも」ともあって大陸の弓矢は日本のものよりも短かったことは
当時も目を惹いたようだけど、>>187の人も言うようにより連射し易かったとかはありそう。

また、『八幡愚童訓』では例の劉復亨を射倒した少弐景資らの話や、敗色が濃くなり赤坂から
なんとか逃げた山田家の若者五人は蒙古側の騎馬三人から追撃されたものの、これを迎え撃って蒙古二人を
射殺したという話もある。

しかし同時に「楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、はつさす」ともあり、『蒙古襲来絵詞』でも
『八幡愚童訓』でも蒙古軍側も武士側も弓矢による攻撃に効果があったことは書かれているので、それほど
命中するかどうか顕著な差が両者にあったようには思えない。

当時の日本の弓矢と大陸の弓矢との優劣を云々するのは個人的にそんなには興味を惹かないけど、
最近の日本史の研究者の人たちの著書で、良く日本の弓は大陸のそれよりも性能的に劣っていた、
という主張は割合見るものの、いまひとつその論拠は曖昧な感じで、当時の大陸の軍事関係の
資料やデータに基づいているとかでもなくて、漠然とした印象だけで言っているような危うさが
あって、そこら辺は凄く気になる。(文永の役の時の司令官は『高麗史』とかで確認すれば「忽敦」
だったのははっきり書かれているなのに、「忻都」と良く間違える場合も多い)

191:名無し三等兵
09/04/26 21:40:17
>>189の補足。
サルタイの射殺以外にも、都市や城塞の包囲中にモンゴルの王侯が包囲されている城中から
放たれた矢が命中して戦死したって話は割と多くて、他にもチンギス・カンの中央アジア遠征中、
バーミヤーンの包囲中にチャガタイの長男モエトゥゲンも城中からの流れ矢に当たって戦死して
いるし、バトゥのルーシ遠征に参加したチンギスの第2皇后クランの長男だったコルゲンも
コロムナという都市を包囲中に同じく城中の敵からの矢に当たって戦死している。

当時の高麗とモンゴル側の弓矢にどれだけ性能差があったかは知らないけれど、その人の腕にも
よるのだろうが、包囲している敵の主将を射殺するだけの性能はあったようだ。

192:名無し三等兵
09/04/26 21:49:54
元軍は兵士一人が携帯する矢の数が武士のそれより多そう。
短い矢を遠くに放つアウトレンジ戦法で、命中率と威力の低さを数で補ったような
感じ。面目標に対する制圧射撃。
武士は果敢に接近して点目標に対し装甲貫徹力の高い正確な狙撃を行った感じ。

193:名無し三等兵
09/04/26 23:16:40
へえ。モンゴルの将軍を射殺した高麗の坊さんの話は初めて知ったわ。

そういや、武士達はてつはう以外には毒矢に驚いたようだけど
元軍のは矢が軽い分飛距離は伸びるが、威力が低くなるので
それを補う為に毒を塗ってたというわけかな。

194:名無し三等兵
09/04/27 01:23:07
毒矢は標準装備ではなく一部の装備の筈だよ
おそらく漢人部隊や高麗人部隊の一部だろうね

昔から大陸や朝鮮半島の戦争では良く使われてて
その威力も評価されていたが、生産能力の限界と維持管理の大変さから
一部での使用に留まっていた

文禄・慶長の役での朝鮮側記録にも日本軍相手に毒矢は大変効果的だが
生産と管理が難しくて少数の運用に留まっているという記録がある

195:名無し三等兵
09/04/27 01:45:39
盾・弩などは何故日本で普及しなかったのか 3
スレリンク(sengoku板)

747 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/26(日) 00:45:19 ID:k+TTJD8b
>>743
>和弓が優秀過ぎて出番無し。
和弓が短弓や弩より優秀なんて事実はないよ。
英軍のロングボウの例は無関係。

元寇や朝鮮征伐の歴史を振り返るまでもなく、

日本がオリンピックに出場し始めた頃、
和弓の達人チームがアーチェリー競技に出て
ビリになった事実は有名だよ。


196:名無し三等兵
09/04/27 07:17:56
>>194
じゃあチンギスが毒矢で死にかけたけど、ジェルメが吸い出したって話は創作?

197:鎌倉幕府は反省しる!
09/04/27 13:31:11
URLリンク(tafu.iza.ne.jp)
>● また『元寇』自体の教え方にも問題がある。元の侵略は鎌倉幕府側に責任がある…という馬鹿げた論説が罷り通っているのだ。

198:名無し三等兵
09/04/27 17:42:29
どう贔屓目に見ても得宗家の責任だろww

丁重な文面を携えて送られてきた外交使節をガン無視
丁重な文面を携えて送られてきた外交使節をガン無視
三度も派遣されてきた外交使節を殺害
10:0で特宗家の過失

199:名無し三等兵
09/04/27 17:45:05
弁護はしない

200:名無し三等兵
09/04/27 17:57:52
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!

201:名無し三等兵
09/04/27 18:01:42
>>200
それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

202:名無し三等兵
09/04/27 19:20:05
>>197
なんか軍事板とは水と油のウヨサイトだな
まあ面白い事も書いてあるけど

以下転載

しかし史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に
肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人がいたことが記録されている。
本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。

また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。
出身地も広範囲で、陸奥・出羽(東北地方)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、
信濃(長野県)、三河・尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、近江(滋賀県)、
丹波(京都府)、備前(岡山県)、筑前(福岡県)、日向(宮崎県)、
肥前(佐賀・長崎県)、豊後(大分県)と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。

203:名無し三等兵
09/04/27 21:17:04
で、当時モンゴルと友好な通商関係だった国ってあんの?

204:名無し三等兵
09/04/28 09:18:49
>>198
で、それのどこが過失なんだ?過失ってのは不注意な過ちってことだろ。
その外交姿勢でなんか失ったか?

205:名無し三等兵
09/04/28 14:34:54
>>201
じゃあ一度目と二度目を出せば?
どうせ無理だろうけどw


206:名無し三等兵
09/04/28 14:41:43
>>205
帰ったら載せてやるよ国士さんw

207:名無し三等兵
09/04/28 15:32:30
>>206

「友好的な国書」楽しみにしてるよ

208:名無し三等兵
09/04/28 15:36:44
>>203
それも興味あるね
まさか高麗とか言い始めたらちょっとおもしろいw

209:名無し三等兵
09/04/28 15:40:09
>>198
そもそも国書を無視されたから侵略していいとか
DQNすぎるにもほどがある
そんな国だからシカトされたんだろう


210:名無し三等兵
09/04/28 19:51:03
元と高麗の関係はアメリカと日本の関係だよ ようするに893と搾取される市民という関係。

211:名無し三等兵
09/04/28 21:51:16
>>208
強いて言えばチベットか?
でもあそこも従属関係だしなあ。高麗に至っては完全に属国だろ。

212:名無し三等兵
09/04/28 23:46:17
そもそもモンゴルと隣接していた国で属国か、敵対していなかった国なんてあったっけ?

213:名無し三等兵
09/04/29 00:39:04
高麗は元宗と忠烈王がクビライとの関係を緊密に持つ事でモンケ時代までの叛逆政権から
真っ当な服属政権として地位の向上に務め、成宗テムルの時代には高麗附馬国王家として
元朝では、チンギス・カン家最大の姻族だったコンギラト部族首長家であるアルチ・ノヤン家に
近い地位にまで躍進している。

>>200では訳していないみたいだけど、例の国書では自分と高麗は君臣の関係だけど、その実、
親子のようだと述べている。モンゴル帝国に仕える服属政権としての義務はあれこれ要求しては
いるけど、クビライは基本的に元宗や忠烈王の高麗国王位それ自体は安堵出来るよう色々と配慮は
していて、例えば、元宗が権臣林衍に廃位された時はそのままにしないで元宗の復位を強力に後押ししたし、
忠烈王から公主降嫁の要請も初めかなりは渋ったようだけど条件付きでちゃんと許可していて、
本当は服属政権の義務として南宋遠征に兵馬を大量に供出しなくちゃならなかったけど、重臣李蔵用が
クビライと直接交渉して日本への派遣時のみ兵力を出す、ということになったが基本的にこの時の
取り決めはその後も守られ、ナヤンやカダアンの叛乱には対抗せねばならなかったけど、高麗軍は
南宋などへは派遣されずに済んでいる。クビライの言う「親子」(保護⇔被保護)としての筋道は
外交的文言だけで無く、なおざりにしないよう配慮はちゃんとしていた。

でも、これはモンゴル皇帝家に「臣属する政権」としての地位だったりクビライからの配慮だから、
「友好的」というのとは次元が違う。



214:名無し三等兵
09/04/29 00:41:25
>>213の続き。
ミカエル八世のビザンツ帝国はイルハン朝とは「友好的」だったかも。
ただ、庶腹の皇女をフレグ、アバカに嫁がせてイルハン朝と同盟したせいもあって、当時フレグ家と
交戦状態にあったジョチ・ウルスとブルガリアの連合軍に攻め込まれている。ジョチ・ウルスの西部
右翼諸軍の総帥だったノガイにも皇女を嫁し、ジョチ家に貢物を献ずる事で安全保障を得たけど、
これはジョチ家の外圧に屈服せざるを得なかったので、ジョチ家とは「友好的」とかではない。

それでも、イルハン朝はアナトリア一帯に設けたルーム州の行政範囲はルーム・セルジューク朝の
支配領域にとどまっていて、イルハン朝で書かれた資料を見る限るでは、ビザンツ帝国には特に
臣従させていた訳でもなく内政に干渉していたようでもないのうえ、敵対もしていないので、まあ
「友好的」と言えなくもないと思う。
そもそも近現代以前で隣国と「友好的」だった地域というのも例が多いようには思えないが・・

> 真っ当な服属政権として地位の向上に務め
「」入れるのを忘れたけど、モンゴル帝国の服属政権として「真っ当な」って意味ね。

215:名無し三等兵
09/04/29 03:38:59
>>196
いや、あれはチンギス(当時はテムジン)が宿敵タイチウト部族を撃ち破ったコイテンの戦いの時、
流れ矢が頸動脈を傷つけてなかなか血が止まらなかったみたいだけど、「塞がった血」をジェルメが
日暮れから夜半にかけて付きっきりで吸い出し続けて、ようやく夜中に傷が固まってテムジンも
意識を取り戻した、という話しなので、矢傷で死にかけはしたけど毒矢という訳ではないようだ。

(『元朝秘史』巻四の末尾あたりに載る話し。意識を取り戻したテムジンが喉の乾きを訴え、
 ジェルメは夜中残敵の徘徊する戦場跡を忍んで乳酪を探し、無事に戻って衰弱したテムジンに
 水で薄めたヨーグルトを飲ませて介抱するという手柄話がこのあと続く)

216:名無し三等兵
09/04/29 12:56:26
しかし>>200の意訳やったやつは天才だなw

217:名無し三等兵
09/04/30 02:16:41
>>206はまだ家に着かないのか

218:名無し三等兵
09/04/30 12:21:56
>>215
ありがとう。何時もながらあんたのレスはためになるわ。
今までずっと毒矢と勘違いしてたわ。

>>217
あまり追求してやるなw

219:名無し三等兵
09/04/30 14:11:40
>>200はずいぶん前にも見かけたコピペなんだぜ?
まあ内容としては元の意図を充分言い表してると思うけど

220:名無し三等兵
09/04/30 16:37:16
URLリンク(mimizun.com)
このスレの>>94が初出かな。それにしても上手すぎる。

221:名無し三等兵
09/04/30 17:09:00
>>218
家のPCが直らないだけだks

国書の内容
天の恵みを受けた(枕詞)モンゴル国皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
>おまえんとこみたいな小国はさ
一言一句も「小国」扱いする字句なし

ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
お隣の朝鮮も俺が即位してすぐ講和して、いまはあいつらと友好関係にある。
>あいつら超しっぽふってきたぞw
3つめの件に従属的関係の文言はなし

おまえらも当然おれ仲良くするよな?
>おまえらも当然おれの子分になるよな?
通商の要求のみでその他の要求は一切なし

俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつ来なくなったけど
きっとおまえら情勢の変化を知らないだけだよな?
というわけで俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw   じゃあな!
>俺も軍事力はつかいたくねーからよw   じゃあな!
中華皇帝が文末に使う定型文な

222:名無し三等兵
09/04/30 17:50:31
大してかわんないじゃんw
てかその文言でも「友好の為の手紙」ってのはかなり無理あんじゃね?

223:名無し三等兵
09/04/30 18:21:49
どう考えても友好の手紙だろw

求めてるのは通商関係だけで、朝貢も何も要求してないうえ
日本が何の挨拶もしないから、元側が送ってきただけ
文面見ても格下扱いや脅しの文句は入ってない。
これに対して完全無視とか、いまやったら野蛮国認定確実w

224:名無し三等兵
09/04/30 18:25:07
休日を満喫してるねえ

225:名無し三等兵
09/04/30 18:34:40
>>223
お前本当に日本人?

226:名無し三等兵
09/04/30 18:41:05
>>223
無視したら、攻めてくるとかwいまやったら野蛮国認定確実だろwwww


227:名無し三等兵
09/04/30 18:41:54
>>223
>>226
現在の価値観で野蛮云々言う事に一体何の意味があるのか教えてくれ。

228:名無し三等兵
09/04/30 18:49:47
>>223
>>中華皇帝が文末に使う定型文な
で、中華皇帝が周辺国家に対して対等の関係を求めた例はあるのか?

229:名無し三等兵
09/04/30 18:55:51
>>226
慣例に則った文書で通商を要求
        ↓
完全黙殺のうえ門前払い
        ↓
再度、同様の文書で通商を要求
        ↓
完全黙殺のうえ門前払い
        ↓
2度の行為に対する説明及び通商要求
        ↓
来ていた外交官をいきなりぶち殺す
        ↓
       開 戦
野蛮人認定されるのは確実に得宗家w

>>228
漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。
あと、明代は朝貢国扱いだけど、この時は対等関係でのな通商要求

もう返答できないけど、潰走認定すんなよw

230:名無し三等兵
09/04/30 19:03:15
>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係
そりゃあガチやったらかなわない相手だものw

231:名無し三等兵
09/04/30 19:14:20
>>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。
あと、明代は朝貢国扱いだけど、この時は対等関係でのな通商要求

いやいや、俺が言ったのは戦争で不利になって和睦したり同盟したりとか苦し紛れの対等な関係
じゃなくて中華帝国となんの脈絡のない国に対して対等な関係を求めたことはあるのかと聞いて
るんだが。

232:名無し三等兵
09/04/30 19:40:26
>>229
はいアウト。使者殺したのは文永の役の後ですから。
あとホラズムも高麗もマムルークもベトナムもジャワも
みーんな使者殺したり拷問したりしてますが彼らは野蛮人じゃないんですか?

233:名無し三等兵
09/04/30 19:40:46
>>229
日本人拉致って帰るような使節団信用できるわけないだろwどんな友好関係だよw

234:名無し三等兵
09/04/30 20:09:41
蒙古の国書を当時の日本が脅しと受け取ったのは事実。
そりゃ金を滅ぼし高麗を属国にし南宋を侵略中の国から国書が来ればそう思う
のも無理はない。

ただ蒙古が脅しをかけるときはあんなもんじゃなくて
「必ず兵馬を送って攻め滅ぼしてやるから城濠を修理して待ってろ」
みたいなことを言うから彼らなりに言葉を選んだのも確かだ。

235:名無し三等兵
09/04/30 20:17:15
>有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。
旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、
数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、
戦闘能力も高くなかった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまう。

ウィキペディアにあったが、殺りたい相手は容赦なく殺るモンゴル人がこんな回りくどい手段を取るとは思えん。

236:名無し三等兵
09/04/30 21:07:17
つかわざわざ「棄民」するためのコストが高すぎて無理あるよな。
むしろ農具持ってたのは、長期戦を見込んでの事でしょ

237:名無し三等兵
09/04/30 21:14:27
水も食料もあっという間に底を着くのに
泥縄の農業でどうにかなるとも思えないが

238:名無し三等兵
09/04/30 21:16:43
単純に征服後のことを考えて持ってきたのではないの?屯田兵的に軍を置くつもりだったのでは?

239:名無し三等兵
09/04/30 21:42:01
むこうのスレが元寇ネタだらけに

スレリンク(sengoku板)

814 :人間七七四年:2009/04/29(水) 18:30:23 ID:myzRItfJ
だからその殆どの根拠は?

816 :人間七七四年:2009/04/29(水) 20:15:08 ID:55o8MUyp
>>814
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)

文永の役

高麗人 12700人
宋 人
女真人
漢 人
モンゴル人  30人

総数 25000人

弘安の役

高麗人 25000人
宋 人
女真人
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人  150人

総数 50000人

240:名無し三等兵
09/04/30 21:49:47
>>237
というか、一回目の役では矢すぐにつきているから、どうみても短期の偵察戦にしかみえないのに
非戦闘員&農具もってくる理由がわからんというか、軍監してたモンゴル上層部が無能な人物だったのかねぇ。
素人目にかんがえても戦準備に一貫性が感じられないんだが、誰があの戦の統括してたんだ?

あの戦なんというか、野村監督風にいえば、勝ちに不思議の価値かり、負けに不思議の負け無しを地でいっていると思う。

241:名無し三等兵
09/04/30 21:52:48
>>239
よくその数字見るけど、なんの史料にのってるんだ?

242:名無し三等兵
09/04/30 22:49:57
>>240
農具持参は二回目では?

>>241
元のサイトもどこからかの孫引きなんだろうけど、最低限どういう本に
載っていたのかは書いて欲しいね。


243:名無し三等兵
09/05/01 04:02:31
>>240
矢が足りなくなったのは壱岐対馬で無駄に十日も虐殺してたからだろう

都督使・金方慶「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。
        船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」
総司令官・忽敦「孫子の兵法に小敵の堅、大敵の擒とあるように、味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、
        大軍の前では結局虜にしかならない。撤退するしかない。」(高麗史・金方慶伝)
だれも偵察が終わったので帰るかなんて言ってない。
もっと戦いたいがもう限界だから帰ろうと言ってる。

文永の役が偵察ならばその偵察で何を得たのか?
なにせ、水城にも大宰府にもまったく攻撃することなく
上陸しても海が見える程度のきわっきわをうろうろしただけでは地理情報も内情もまったくわからない。
偵察の役を果たせてない。

そもそもモンゴルがやってたほかの地域への攻撃ならば三万なんて本気の攻撃でも多い方。



244:名無し三等兵
09/05/01 04:04:18
>>221
おいおい
一度目と二度目ってやつを早く出せよ

>201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

はやくはやく


245:名無し三等兵
09/05/01 09:51:57
>>240
つか俺が見たソースだと
文永は金包茎率いる高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万って内訳で
弘安はこれプラス旧南宋兵10万(詳しい内訳はわからない)の合わせて14万だったぞ?どれが正しいんだ?
あと、そのスレ見たら、文永にも南宋兵がいたと勘違いしてる人がいる。
文永の時点ではまだ宋は滅んでない。

>>244
もうこれ以上イジメてやんなよw
文永の使者殺したと勘違いしてるレベルの人なんだからw

246:名無し三等兵
09/05/01 14:34:57
>味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、大軍の前では結局虜にしかならない

もともと日本は人口も兵力も莫大だけど>>202を見る限り
四国や中国からも博多に続々と馳せ参じてたんではなかろうか
阿波(徳島県)の御家人が対馬に居たってすごいな

247:名無し三等兵
09/05/01 14:53:35
しかしこうしてみると、古代から東アジアでジャイアンのごとく振舞ってきた中華が
突如あらわれた欧米にボコボコにやられたってのは痛快だよな
なんかこう、ザマーミロ! みたいな気分になる
もっともその後で中華よりひどいことになっちゃうわけだが
それでもやっぱりザーマーミロだ
こんなこと思うのは俺が小物なんだろうけどなw

248:名無し三等兵
09/05/01 15:05:17
>>247
なんで痛快なのかよくわからん。別に中華帝国は
日本を圧迫したり、攻めてきたりしてないだろ。
(日本が海で囲まれていたことと、高い国力を
有していたこともあるだろうが)
感謝しろとは言わんが、むしろ、中華帝国のおかげで
学んだり儲けたりした部分の方がでかいだろ。


249:名無し三等兵
09/05/01 16:05:31
というか大陸と距離を置いて付き合っていたから
日本はモンゴルの侵略を免れ、その後も中華にベッタリにならなかったから
19世紀に欧米が進出してきたときも、冷静に対応して近代化に成功したんだよな。

250:名無し三等兵
09/05/01 19:36:58
いろいろサイト回ってるが弘安はいいとして
文永のほうは兵力がまちまちだな
水夫が15000なんて意見もよく見る

251:名無し三等兵
09/05/01 22:09:19
そりゃ大掛かりな遠征となりゃ非戦闘員も大量に動員するが
兵力のうちの殆どが非戦闘員なんてことは流石にないだろう。
そうなると何しに来たの?って話だし。

252:名無し三等兵
09/05/01 22:14:16
文永の最初の段階で日本側はどれくらいだったの?

253:名無し三等兵
09/05/01 23:45:58
>>245
> 高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
> その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万

それらの数字は『高麗史』忠烈王世代家、同書金方慶伝、『高麗史』完成の翌年に編纂された
『高麗史節要』の文永の役関連の記事(それぞれの記事の元宗十五年(1274年)十月条)に
基づくものなので別段問題ない。

「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』忠烈王世代家)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』金方慶伝)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史節要』元宗十五年冬十月条)

・・・見て分かる通り、三箇所の記述は全部一字一句同じなのでうpして並べてもあまり意味無いけど・・

(一応『高麗史』の数十年後に編纂された『東国通鑑』にも出てくるけど、文永の役の件は
 『高麗史』金方慶伝の丸写しなのでスルーしても可だろう。ただ、日本では朝鮮半島史の史料として
 『東国通鑑』が十七世紀中頃から流布していて、江戸時代や明治初年まで日本での蒙古襲来関係の
 研究では専らこちらがメインで使われていた。『高麗史』が蒙古襲来関係の史料として使われる
 ようになったのは十九世紀も末くらいになってからなんだそうだ。大正時代に『東国通鑑』の
 原文+全文書き下し本なんかもも出版されてたりする。)

「元本国」と言っても忻都率いる鳳州屯田などからの軍は高麗領北辺からやって来たけど、これは元朝の
領域としては南東の辺域にあたり、当時「腹裏」と呼ばれた大都や上都開平府などの中心地域やムカリ国王家
などの譜代五投下、チンギスの兄弟たちの後裔である東方三王家の本拠地からも外れるため、「モンゴル高原
からやって来た」的なビジョンとは大分違いけど。

254:名無し三等兵
09/05/02 05:03:59
元寇後の大混乱が収束したのは約300年後の秀吉の天下統一後といえるのだろうか

255:名無し三等兵
09/05/02 10:02:42
>>254
それはない。

256:名無し三等兵
09/05/02 10:21:26
>>253
モンゴルやテュルク系の遊牧民は元々人口少ないし
そりゃまあ、あれだけ拡大すれば制服民中心の編成になるよなあ。

257:名無し三等兵
09/05/02 11:25:40
>>251
「用 兵 夫 孰 所 好 (兵を用いることなど好むところではない)」

非戦闘員が多いというのはこの言葉を裏付けているね。つまり友好的な訪問団に対して外交というものがわからない
日本人が狼藉を働いたというわけ。

258:名無し三等兵
09/05/02 11:42:28
日本史板でもそうだったけど煽り屋が張り付いているね

259:名無し三等兵
09/05/02 11:50:34
今も昔も日本人が外交オンチなのは世界の常識ですけどね。

260:名無し三等兵
09/05/02 11:53:40
手を組むだけ無駄な連中と手を組むところなんか特にねw

261:名無し三等兵
09/05/02 11:55:54
友好的な訪問団というのは矢をすぐに打ち尽した点からも説明し得る。

262:名無し三等兵
09/05/02 12:20:23
自分で調べるのが面倒だから煽って誰かに話させようってことかな

263:名無し三等兵
09/05/02 14:50:34
>>257
またお前かw
>>229でもうレスしないとか言ってなかった?w

264:名無し三等兵
09/05/02 19:48:10
PC壊れたとか言うのが嘘というのがわかったところで…

はやく友好的な国書とやらを出してよ
>201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw



265:名無し三等兵
09/05/03 00:00:01
たまたま三、四万人で海岸散歩をしていただけなのに襲われるなんてひどすぎる話だな。

266:名無し三等兵
09/05/03 03:28:45
そもそも>>200は本当に三度目の国書?
あれが最初じゃないの?

267:名無し三等兵
09/05/03 06:53:49
>>265
一発だけなら誤射かもしれない

268:名無し三等兵
09/05/03 09:21:24
なあに、かえって免疫がつく

269:名無し三等兵
09/05/03 12:16:54
>>268
確かに文永の役は日本にとっては予防接種だったな


270:名無し三等兵
09/05/03 13:25:54
確かに最初から弘安並みの規模で攻めてきてたら結果は違ってただろうな。

271:名無し三等兵
09/05/03 13:52:03
といっても
これまた史実通りの弘安の役なら
江南軍はあとからくるので先発の東路軍の規模はさほど変わらなかったりする

272:名無し三等兵
09/05/03 13:57:44
でも防塁が存在しないわけだから橋頭堡は簡単に取れるんじゃない?
日本軍の数だってもっと少ないわけだし。

273:名無し三等兵
09/05/03 16:32:33
日本があっさり撃退

弘安の役は威力偵察ニダ

という捏造史になるだけな気が売る

274:名無し三等兵
09/05/03 16:43:29
坂東武士「よっしゃあ!一番乗り!蒙古の連中フルボッコにしてやんよwwwww」
九州武士「あのさあ、テンション上がってるとこ悪いんだけど」
坂東武士「ん?何?」
九州武士「遥々来てもらってなんだけど、もう帰っていいよ。」
坂東武士「は?w意味わかんないんですけどw」
九州武士「いや、だからあいつらもうとっく逃げ帰って、戦終わってんのよ。はい、お疲れさん」
坂東武士「(´;ω;`)」

275:名無し三等兵
09/05/03 17:13:22
>>197見ると離島ですら各地から馳せ参じてるようだけど
実際はやる気のある奴は勝手に参加してたのかな
通説では逃げ回って参加しなかった連中がいたという話ばかり有名だが


276:名無し三等兵
09/05/04 14:50:13
そういえば弘安の役で元軍が向こうを出港したのって今の季節ぐらいでしょ
旧暦だからもう博多湾についてる?


277:名無し三等兵
09/05/04 16:28:08
>>264
つか今思ったんだけど、モンゴルと高麗の関係って
戦国時代の今川氏と家康幼少期の松平氏の関係に近かったんじゃない?

278:名無し三等兵
09/05/04 16:41:49
それがどうして>>264へのレスなのか

279:名無し三等兵
09/05/04 17:12:34
ごめん、>>214だったわ

280:名無し三等兵
09/05/04 17:16:37
>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。

司馬遷が史記の「匈奴列伝」で
「高祖は一族の娘を送り、匈奴にに綿、絹、酒、米その他を贈り・・・」と
書いてあるのに・・・
人を試してるんですか?

281:名無し三等兵
09/05/04 18:21:37
うわ~中華がここまで頭下げまくってるの初めて見たw

282:名無し三等兵
09/05/04 18:52:32
>>276
今ぐらいに攻撃を開始して
夏になっても上陸すらできないって…

283:名無し三等兵
09/05/06 16:57:08
当時の九州に日本海越えて十数万の軍勢を派遣・・
上陸成功したらしたで補給が大問題だったろうな

当時の輸送力とか考えるとやっぱ体のいい棄兵だったとしか思えないな

284:名無し三等兵
09/05/06 17:09:26
>>283
陸上を侵攻するよりは遥かに楽。
船の積載量は馬での輸送を遥かに上回る。

285:名無し三等兵
09/05/06 17:31:18
>>283
見苦しい

286:名無し三等兵
09/05/06 20:02:17
>>284
まさに棄兵に打ってつけというか

287:名無し三等兵
09/05/06 20:12:05
言い訳ばかりだなw

288:名無し三等兵
09/05/06 20:22:32
国書マダ~?

289:名無し三等兵
09/05/06 21:51:28
>>283はどうでもいいが、海上侵攻が陸上侵攻よりも楽ってのは暴論過ぎないか?

290:名無し三等兵
09/05/06 21:54:58
朝鮮出兵も上陸はらくらく成功して長期戦。倭寇もちょくちょく沿岸を荒らし、中には南京まで行ったのもいる。
守る側は海岸線をすべてはカバーしようがないから攻撃側主導で展開できる。

291:名無し三等兵
09/05/06 22:19:35
地続きならわざわざ船団を用意して上陸する必要すらない。そのまま歩いて侵攻できる。
海岸線を全てカバー出来ないと言うが国境線を全てカバー出切るのか?

292:名無し三等兵
09/05/06 23:23:16
前近代での船舶での運送は、「ハイリスク・ハイリターン」の世界。
エジプトでのインド洋交易に携わっている商人達の話を聞く限りでは、積載量は陸上のラクダや馬
なんかでの隊商が運ぶ量に比べて圧倒し、隊商で運び切れないような大型の商品も運ぶ事が可能だった。
そのため無事送り先に届けばその収益は非常に高い。

その代わり、天候で安全性が大きく左右されるのが問題で、海上で遭難することを考えれば危険性は
船の方が圧倒している。経験豊富な隊商だったら通常の街道を間違える事はまず無いし、街道の治安の
問題はその地域の政治的軍事的な安定性が確保出来ているかどうかで違うが、野盗に襲われても交渉で
解決する場合も無くは無い。
ところが海上の場合、船が嵐に遭うの日常的だし、沿岸ならまだしも洋上で転覆すれば助かる見込みは殆ど無い。

ちなみに、高麗とクビライ政権が三別抄討伐をしていた頃の話だが、『高麗史』の元宗十四年三月己卯
(1273年4月15日)の条に、

「(元宗十四年三月)己卯、西海道戰艦二十七艘至伽耶召島遇大風敗没。南京判官任恂仁州副使李等
 録事裴淑及蒿工水手等一百十五人溺死。慶尚道戰艦二十七艘亦敗溺。」
(己卯、西海道の戦艦二十七艘伽耶の召島に至り、大風に遇い敗れ没す。南京判官任恂、仁州副使李シ]
 録事裴淑、及び蒿工水手等一百十五人溺死す。慶尚道の戦艦二十七艘亦た敗れ溺る。)

という記事がある。
数百人単位での艦船での行動は、戦闘とか何もしていなくとも風雨にさらされ船が転覆すればその
数百人単位で指揮官込みで部隊が丸ごと全滅する危険性もあり、トータルで見れば動員数が多ければ多い程、
海上侵攻が陸上での侵攻よりも楽とは言い難い。

無論、好天順風に恵まれれば大量輸送が出来るという利点は大いに発揮出来るだろうが、毎回そうとは
限らない。当時の船での海上輸送は飽くまでも「ハイリスク・ハイリターン」。
弘安の役は、出発からしてグズグズな感じだったが、完全に失敗したのは例の大風で船団が殆ど全滅状態に
なったことが直接の原因だったことを想起すれば十分だと思う。

293:名無し三等兵
09/05/06 23:54:20
>>290
もしかしたら、海流の関係もあるとか?
例えば日本→大陸は比較的簡単だが、大陸→日本は難しいとか。
まあ>>283の指示する棄民策とやらはナンセンス極まりないがね。
用済みになった住民や兵は、射的の的代わりにして皆殺しがデフォだったモンゴルが
南宋の時だけなんでそんな回りくどい真似すんのよ。

294:名無し三等兵
09/05/07 01:54:56
>>292
朝鮮西岸は半島にぶちあたって荒れまくり危険
対馬より東方は対馬海流の流れが速くて危険
北部九州と朝鮮南岸は順調に渡れば危険は回避できる

295:名無し三等兵
09/05/07 02:54:50 t22W5yLo
二回目は棄兵と考える方が自然。
旧南宋兵皆殺しにする方がコストも人員もかかるし、現地人の不満も募る。
それなら大遠征の大義名分で日本に捨ててきた方が効率的。
上手くいけば儲けもん。まあノーリスクハイリターンって事さね。
元が本腰入れてたのはベトナムだべ。

296:名無し三等兵
09/05/07 03:46:54
国書出せないの?

297:名無し三等兵
09/05/07 04:17:38 t22W5yLo
俺は例の国書の奴とは違う。ただ元側の目的について述べてるだけだ

298:名無し三等兵
09/05/07 05:04:16
まあどのみちベトナムも失敗してるけどね

299:名無し三等兵
09/05/07 05:05:53
>295
面白い妄想だが
まるで南宋人だけで攻めてきたような言い草だなw

300:名無し三等兵
09/05/07 15:52:45
元は常に侵略した先の人間を兵士に使う
反抗しなければよし使えない民なら普通に虐殺
そうしたなか
なぜ弘安の役だけ意味不明な珍回答連発してるのか

答え
日本の圧勝を認めたくないから

301:名無し三等兵
09/05/07 16:48:55
この際、元が本気だったかどうかなんてどうでもいい。





何故なら「結果的には」鎌倉幕府もまだまだ兵力動員する余裕ある状態で終わったわけだしw>>274

302:名無し三等兵
09/05/07 17:10:23
ようは人口も兵力も桁違いに多い日本を4万で落とすのは不可能ってことだな2回とも

303:名無し三等兵
09/05/07 17:52:50
一応弘安の役自体は大宰府の占領を目的にしてたのでいきなり日本を落とすというより
大宰府を落とすのに成功したら
そこを拠点にさらに次、さらに次と侵食していく予定


まあ兵力的には大宰府落とすんなら四万ぐらいでよかろうと予想したこと自体は
結構妥当。他国はそれぐらいで落ちてるんだから。

ただ武士が強すぎて計画がまったくうまくいかなかったw

304:名無し三等兵
09/05/07 17:59:35
>>301
確かに

本気じゃなかった論でいえば動員数的には日本の方が片手間だったともいえるわな
まあ現地の武士は当然本気、必死でやってたわけだが…

指の先ではじいたようなもんだな。本気のデコピンってやつだわ。

305:名無し三等兵
09/05/07 18:09:10
>>276
逆、グレゴリオ暦なら約一か月遅くなる


306:名無し三等兵
09/05/07 18:29:03
>>303
それって文永のことじゃね
弘安だと日本側も5万以上になり上回る

文永に関しては示威行為だと思うけどね

307:名無し三等兵
09/05/07 19:03:52
そういや、日本攻めた元軍はやたら寄せ集めだの何だの言われるが
他地域攻めた連中はどうだったんよ?元々モンゴルは人口そんなにいないんでしょ?

308:名無し三等兵
09/05/07 20:25:46
>>307
昔ここか日本史のスレで西征には全部族から抽出されたメンバーが参加したとあったな
当時は国士みたいな住人しかいなかったので完全にスルーされてた

309:名無し三等兵
09/05/07 21:05:34 t22W5yLo
バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍や
フラグ率いる西アジア遠征軍や南宋遠征軍に較べれば
日本遠征軍は戦力的に将、兵卒共に大きく劣ると言わざるを得ない。
フビライが本気だったとは思えない。やはり高麗が日本攻めろと五月蝿いから
形の上だけ攻めて、実質棄民だったと見るのが自然。
兵士の九割以上が属国の高麗と旧敵の南宋だから失敗しても痛くも痒くもない。

310:名無し三等兵
09/05/07 21:21:10
>>295,>298
陳朝のベトナムはクビライの時代には元朝側に服属していて、鎮南王トガンが現地で無茶な徴発を
行ったせいで離叛した。
陳朝のベトナムでの戦役は、最後に鎮南王トガンの軍が雲南へ撤退中に襲撃されてボロボロに
やられているけど、それ以前には陳朝の側も鎮南王の軍に何度もフルボッコにされているから
なかなか決着の付かない消耗戦だった訳で、2重3重に日本への文永・弘安の役と内容が違う。

あと、陳朝は鎮南王トガンの軍を雲南へ撃退はしたけど、元朝には陳朝側にかなり有利な条件で
再度元朝の服属政権として復帰することを誓約していて、元朝もこの要求をほぼ全面的に受け入れて
いるから、この点も日本の場合と違う。

ベトナムの場合、元朝としては離叛した陳朝を再び自らの側に引き留めることが目的だったので、
鎮南王トガンの軍が最後惨敗したとは言え、当初の目的は最終的に達成出来たから、その意味では
「成功した」と言えると思う。

311:名無し三等兵
09/05/07 21:39:14
>>189-191
思い出した
以前モンゴル関係の本を見てたら朝鮮や中央アジアで結構モンゴルの高名な連中とか
弓で死んでたんだよな。すっかり失念してた
劉復亨が重傷を負った件は、それらと比べるとむしろ見劣りする

312:名無し三等兵
09/05/07 22:56:22
>>310
そりゃまあ、一旦服属させた地域で反乱起きりゃそっち優先で鎮圧するよなあ。

313:名無し三等兵
09/05/08 00:32:31
>>309
つまり元寇の元凶は高麗であり、朝鮮人を征伐するその後の行為はそれですべて正当化。いいかもw

314:名無し三等兵
09/05/08 01:49:46
>>309
ウルスにあやまれw







315:名無し三等兵
09/05/08 03:03:08
>>304
>本気のデコピン

言いえて妙

316:名無し三等兵
09/05/08 17:51:33
牟田口「モンゴル帝国の亡霊がインパール作戦の邪魔をした」

317:名無し三等兵
09/05/08 18:22:01
モンゴルはカラフトアイヌにすら勝てなかったって本当ですか?

318:名無し三等兵
09/05/08 19:43:57
和弓伝説が崩れていく

319:名無し三等兵
09/05/08 19:53:06
どっちかというと和弓は過小評価される傾向にあった気がするが。

320:名無し三等兵
09/05/08 20:39:15
スレリンク(whis板)

668 :世界@名無史さん:2007/09/02(日) 03:17:35 0
上の方で元寇での日本勝利は暴風雨のお陰という相変わらずの書き込みがあるが、
ディスカバリチャンネルで元寇のことを取り上げたときに、日本の勝因は、やはり上陸
されても橋頭堡を築かせなかったこと、長大な弓を使ったので、射程ギリギリでは
日本の弓の方が威力があったこと(劉復享が小弐景資に射倒されたのは、日本軍
弓の射程外と思っていたらそうでなかった)、接近戦では刀剣の扱いに巧みな鎌倉
武士の方が強かったこと、そして急に船を揃える為に生粋の浅い内陸河川用の船
を多数徴用したので、台風にはひとたまりもなかったとかなり客観的に分析してる。
再現ビデオの日本軍の時代考証は滅茶苦茶だったが。
アメリカが無理に日本びいきにする必要もないわけで、勝てる要因があったから
勝てたというきわめて当たり前の分析だったよ。
別のアメリカの歴史番組をアメリカにいる時に見たときには、皮や布製の元軍、高麗軍
の鎧は、騎射や槍を構えての突撃には身動きが容易で向いていたが、鉄の鎧を貫通
する日本の弓矢と斬撃に向いていた日本刀に対しては有効な防御にはなってなかった
と言ってたな。実際中国の鎧を矢で打ち抜いたり日本刀でばっさり切り裂いて見せていた。

321:名無し三等兵
09/05/08 21:47:51
東南アジア戦線に数千の兵力しか投入しなかった元が、その数倍の兵力を
投入した日本戦が、単なる牽制攻撃ですぐに引き上げる予定な訳がないだろ。

322:名無し三等兵
09/05/08 23:00:33
合計16万人以上も送って失敗
そして倭寇が荒らしまわるようになった

民衆はどう思ったのかな

323:名無し三等兵
09/05/09 00:18:54
>>322
民衆についてだが
前に図書館見てきたんだが
その後にもあった小規模な侵攻で日本中が大騒ぎしただの
元寇後は脅威が続いたとか書いてる本ばかりだった

324:名無し三等兵
09/05/09 02:13:13
小規模な侵攻は刀伊の件かな?

325:名無し三等兵
09/05/09 04:51:23
「その後」だから刀伊じゃなくて応永の方か。

しかしまあ、同じように対馬攻めたのに
片や大虐殺が繰り広げられ、片や対馬の武士達に瞬殺されるとは
蒙古襲来の対馬攻めと応永の対馬攻めで
なんでここまで差がでたもんなのか?

326:名無し三等兵
09/05/09 06:52:15 uCbV6VXC
1日で引き上げたことから威力偵察説なんだろうが、むしろ1日で撤退したことのほうが異状。
撤退して大風に遭ったのではなく低気圧の中に飛び込んだ。
また往路の対馬、壱岐では滞在せざるをえなかったのだろう。

魏志倭人伝なぞ解きの旅さんの
通信使一行日本往還日記から渡海の状況が察せられる。
URLリンク(www.max.hi-ho.ne.jp)
>『往路』
初十日、この日朝陰るも晩に晴る。早朝船を発し、三百里を行き、
夕府中〔対馬厳原町〕に到る。乃ち島主平義智の居る所。……
八月十一日、この日晴れ。風勢好からず、因って留る。・・・
十二日、この日晴。・・・
十三日、この日陰る。仍(よ)って町中に留る。
十四日、この日陰り、洒(さい)雨あり。・・・
十五日、この日陰る。・・・
十六日、この日朝晴れ晩は雨ふる。・・・
十七日、この日陰雨。・・・
十八日、この日陰る。朝府中浦を離れ、開船して洋に出づ。
風濤甚(はなは)だ緊(きつ)く、已むを得ず、内浦に回り泊す。
……

『帰路』
(旧暦10月10日名護屋発11月23日釜山着、最後はかなり冒険したようだ。)
対馬に回りてより後、風に阻まれ留ること二十六日。……
盖(けだ・蓋?)し渡海には須(すべか)らく東南風を得べくも、
冬月はこの風を得難し。故に留滞してここに至る。嘆ずべし。

327:名無し三等兵
09/05/09 07:35:23
>至元十一年冬十月、入其国敗之。而官軍不整。又矢盡。惟虜掠四境而帰。

官軍整ならずは集団戦術を使うので元軍の損害を示すと読むのが通りがよいと思うんだけどどうだろう。
南太平洋海戦の航空隊やろ号作戦の一航戦搭乗員のような

328:名無し三等兵
09/05/09 09:21:32
>>326
自己スレ。いや別に杉山先生がいい加減な説吹いてるとかそういう意味じゃ全然ないですから
ただ、攻略目的だろうと威力偵察だろうが関係なく天気待ちせずに玄界灘に漕ぎ出したのは、
波乗りして遊ぶほど余裕があった可能性があると思うんです。

329:名無し三等兵
09/05/09 11:27:54
急がないと武士に殺されちゃう死ね

330:名無し三等兵
09/05/09 13:55:58
>>322
「民衆がどう思ったのか」についてはよくわからない。
基本的に史書は官僚が残した記録なので、司馬遷のような変人でもなければそういうものは言及しない。

渡海遠征なら、日本以外にもヴェトナムやジャワ等々にも行った。
しかし、これらの国はその後、元に対して恭順の意志を示し、朝貢の使節を送っている。
つまり、軍事遠征としては失敗だったかもしれないが、政治的には成功していると言える。
(少なくとも「中国」という枠組みの中では、軍事遠征の成功という言い訳が可能。)

一方の日本は、他の国と同じ様に「元に朝貢の使節を送ったのか?」と言えば、答えはNO。
日本が元に送ったものは、報復の軍事行動、即ち「倭寇」だった。
無論、これらは海賊であり、当時の鎌倉幕府やその後の南北朝、室町幕府、つまり日本の中央政府とは無関係なものであったというのが日本側の一般的見解。
なのだが、支那ではそうではないらしいw
明代の寧波の乱なんかが倭寇の典型的な倭寇の例として語られるように、朝廷や幕府とは別の「日本の意思」か何かが存在しているらしいw

何れにせよ、日本からの報復行動としての倭寇は、元に対してそれなりのダメージを与えた事は確か。
これに対して元側が防戦一方であり、根本的対策=倭寇の根拠地への討伐等が一切できなかった事は元朝への求心力の低下、その衰退、滅亡への一歩となった事は間違い無いだろう。

331:名無し三等兵
09/05/09 14:34:00
>>325
いやたぶん甑島の件だと思うな
それだけで1冊あり日本中が上を下に大騒ぎになったというのを
多数の資料を示して解説してたわ
、残りの本も多くが第3次侵攻の噂だとか異国船発見で
国内が驚天動地の大騒ぎになった事態を取り上げてるんだわ

332:名無し三等兵
09/05/09 15:12:12
>>326
魏志倭人伝のそれは風待ち
当時の船は順風じゃないと対馬海流超えられないからひたすら待ってる

高麗の船がどんなもんかわからないけど、南宋の船に似た
ジャンク船なら逆風でなければ航海できる

333:332
09/05/09 15:22:49
ん?これ朝鮮通信使の日記なのか すまん

334:名無し三等兵
09/05/09 21:46:08
外国からの初めての大規模な侵略だから、
元軍の強さ、残虐さは誇張されて伝わっていてもおかしくないな
八幡なんたらってのも宗教書だし

335:名無し三等兵
09/05/09 22:44:14
元はハイドゥ軍との戦いではどういう編成だったんですか?
期間が長すぎるから一口にどうとは言えないかも知れませんが
詳しい方お願いします。

336:名無し三等兵
09/05/09 23:04:22
>>334
『八幡愚童訓』は名前のとおり八幡大菩薩の神徳を称揚する宗教書なんだけど、
文永・弘安の役について部分の元ネタは、文永の役の主戦場のひとつだった博多の
箱崎八幡宮の社官が残した両戦役の実見記らしい『八幡ノ蒙古記』をベースに
使っているらしい。(江戸時代の漢学者、橘守部などの談)

『八幡愚童訓』は八幡大菩薩の神徳称揚を目的として岩清水八幡宮の社僧あたりが
十三世紀末から十四世紀の初頭頃に編纂したものらしいが、神功皇后の三韓征伐や
唐天竺のエピソード等、本地垂迹説の観点から八幡大菩薩にまつわる雑多な内容を
網羅的に叙述していて、寺社縁起系の文学として非常に完成度の高い書物。
その1エピソードとして文永・弘安の役についての話が載せられている。

勿論、宗教文書だし、「八幡大菩薩の神徳称揚が目的」という内容だけに全部が全部
実際にあったことそのままが書かれている訳ではないだろうけど、例えば有名な
「てつはう」が使用されたことは博多湾の海底発掘調査にも合致しているし、文永・
弘安の役当時の水城について詳述がされているが、これも戦後の水城の発掘調査とも
良く合っている。

ただ、室町時代から江戸時代にかけて写本や流布本が多く出回ったが、時代を経るごとに
内容が大雑把になったり部分部分で改編や脱漏などが多く、諸本同士で内容が食い違う
箇所も見られる。(江戸時代には絵入り本まで出た)
文永・弘安の両役の戦況全体を記述しているため、(水城の記述とかも含めて)非常に貴重な
資料なんだけど、如何せん資料としての性格が性格ゆえ非常に扱いが厄介な代物でもある。

(ちなみに「蒙古の連中は牛馬を食する輩だから捕殺した武者を食べるに違いない」みたいなことを
 書いているが、無論、華北や高麗でのモンゴル軍の戦役からしてそんな展開は実際にはないw)

337:名無し三等兵
09/05/10 04:35:02
そういや従来は蒙古襲来絵詞は竹崎さんが
武勲を誇示する為に描かせたって言われてたが
あれホントは安達さんや少弐さんを鎮魂する為に描かせたんだよね。
だから彼ら2人がイケメンに描かれてるw

338:名無し三等兵
09/05/10 16:48:20
棄民説の意味がマジでわからん。
フビライの治世を通してカイドゥと戦ったり周辺諸国に出兵していて
別に兵士が余っているわけでもないのに、なんで日本相手にだけ
無駄金を大量に費やして棄民を送り込む必要があるんだ?

339:名無し三等兵
09/05/10 17:12:06
水際防衛のための防塁と古代からの大野城・水城はわかるけど、
博多湾を見渡すことができる愛宕山、祖原山、赤坂(桜坂)とかには築城しなかったの?

大宰府を攻め落とすためには、現在の西鉄に沿った道で進軍するのが最適だと思うけど、
なんで今津・姪浜・百道・箱崎・香椎・海ノ中道に戦力を分散して上陸したんだろ?



340:名無し三等兵
09/05/11 23:34:24
>>338
南宋や高麗の武官が腐ってて、
大して強くもなければいつ裏切るか判らんので、船に積み込んで送り出す鉄砲玉みたいな使い方しか出来なかったんだろう。



341:名無し三等兵
09/05/12 01:03:06
棄民ネタ飽きた ほかのネタやってくれ

342:名無し三等兵
09/05/12 09:00:53
三度目の国書マダー

343:名無し三等兵
09/05/12 09:20:40
結局、棄民派や威力偵察派の主張は具体的な裏付けや根拠に欠けてるんだよ。
惨憺たる結果の理由を後付けの推測で負けじゃないことにしようとしているだけ。

344:名無し三等兵
09/05/12 10:08:47
>元寇の弘安の役の際に、江南軍司令官として3500隻、10万人の大船団を率いて現在の浙江省寧波を出発し
日本に来襲。敗戦により将兵を見捨てて帰国したことが、生きて帰った3人の兵からクビライの耳に入り、
クビライは激怒したため斬首に処された。

予定通りに棄民しただけなのに、なぜかフビライに怒られて首を斬られてしまう范文虎カワイソス。

345:名無し三等兵
09/05/12 14:28:15
フビライ「三人も帰ってきてるぞゴルァ!」

346:名無し三等兵
09/05/12 14:34:23
しかも一番、棄民したかった南宋兵が一番生存率高かった件

347:名無し三等兵
09/05/12 17:37:21
>>344
いや、『元史』世祖本紀によると、弘安の役から6年後の1287年(至元二十四年)にテムゲ・オッチギン家の
ナヤンが東方三王家を率いて叛乱した時、范文虎も衛軍五百を率いてクビライの親征に扈従したらしい。
『元史』では范文虎の伝がないので詳しくは分からないが、『新元史』で編者・柯劭[文+心](かしょうびん)
(20世紀前半に活躍した中国の歴史家)は彼の伝記を設けていて、どこからの引用か不明だが弘安の役での
損耗について范文虎には「世祖之を罪とせず」としたと書いている。
『元史』世祖本紀に記録されている限りでも、その後も范文虎はナヤンの乱鎮圧後の遼寧行省での事後処理を
任されたり、尚書右丞、商議樞密院事に任じられ、クビライが進めていた江南開発についてもクビライの没年まで
関わっている。

(ちなみに『新元史』は20世紀に入って柯劭[文+心]が編纂したものだが、引用箇所の典拠を載せず、しかも
 典拠の分かる箇所でも誤記脱漏が多すぎて、研究者から非常~~に不評をかった書物)

クビライが亡くなった後、成宗テムルの初年(1295年)に平章政事になっていた范文虎が、先年開通していた
通恵河(クビライが開削させた、大都と現在の天津にあたる通州と結ぶ運河)施工の監督に関わり、二品銀印を
給されたことが出て来るので(『元史』成宗本紀の序言の至元三十一年八月己丑条)、少なくともこの頃までは
存命みたいだが、その後の足跡が分からない。范文虎は南宋からの降臣でもかなり活躍したことで有名な割に、
実は生没年が今でもよく分からないなままだったりする。

なので、弘安の役から帰って来た范文虎がクビライによって斬刑に処されたという情報はガセだと思う。


348:名無し三等兵
09/05/12 17:55:22
企画した連中とクビライではまた別の思惑があったりするんでないの
壱岐の虐殺にしてもクビライは絶対に民衆が一人として殺してはならない
と出撃前に伝えたそうでリアルで起きた事と違い過ぎるw

349:名無し三等兵
09/05/12 17:56:04
民衆が

は民衆を

350:名無し三等兵
09/05/12 18:05:10
>>347
ついでに、『元史』日本伝では「十萬之衆得還者三人耳(十万の衆、還りを得たる者三人のみ)」と書かれて
いるようだが、

同じ『元史』でも范文虎や李庭に従って江南軍に加わった相威の伝記(『元史』巻百二十八)では
「八月朔、颶風大作、士卒十喪六七(八月朔、颶風大いに作り、士卒を喪うこと十の六、七)」とか

同じく弘安の役の江南軍司令だった阿塔海の伝(『元史』巻百二十九)でも
「征日本、遇風、舟壞, 喪師十七 八(日本を征するも、風に遇い舟壞れ、師を喪うこと十の七、八)」とあり、
(阿塔海伝では、至元二十年(1283年)に征東行省丞相に遷され日本遠征に出たとあるが、弘安の役は
 至元十八年なので、阿塔海伝の紀年は誤りだろう)

『元史』世祖本紀 至元十八年八月壬辰条(1281年9月13日)でも、
「詔征日本軍回、所在官為給糧。忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利、
 餘軍回至高麗境、十存一二。」

とあって、『元史』での記述の傾向は、「軍の6、7割を失った」とか「7、8割を失った」、あるいは
「1、2割りしか残らなかった」という書かれ方をしているので、蒙古襲来関係の研究でも日本伝の
「十万の衆、還りを得たる者三人のみ」は誇張が過ぎる表現だというのが大方の見解のようだ。
この「三人」というのは弘安の役の報告を行った于[門+昌](うしょう)と、その後帰還した莫青、呉萬五の
ことらしい。

相威伝では「帝震怒」してただちに阿塔海に再度の遠征させるつもりだったそうだが、諫言するものが
いなかったため、相威が上奏して「今は残余の戦艦も足りないため、まず練兵や戦艦の建造など準備を固め、
相手側の防備が弛んだ頃を見計らい、風に乗じて急襲するのが万全の策かと思われます」というような
内容を述べたので、クビライは遠征を一旦取り止めとかいうらしい。(本当か?)

ただ、『元史』の他の記事を見ても弘安の役の時の指揮官クラスが明確に処罰されたというような記事は
見付けられなかった。阿塔海にしろ洪茶丘にしろ、後のナヤンの乱でクビライの親征に関わって出征して
なにがしか活躍しているから、そのあたりと関係があるかもしれないが、良く分からない。

351:名無し三等兵
09/05/12 18:44:03
「残ったのが1,2割」でも想像を絶する大損害なのには変わりないがね。

352:名無し三等兵
09/05/12 19:08:11
それでも勝ち負け云々以前に「十万のうちの三人」という数字と
「全軍のうちの一、二割(全軍十四万とすれば1万4000~2万8000)」
じゃあ実数というか現実味の有る数字として大分違う訳だが。

353:名無し三等兵
09/05/12 19:12:11
>>352
そうだね。まだ全体の八割か九割しかやられてないんだから、まだまだ戦えたよね。

354:名無し三等兵
09/05/12 19:25:48
>>353
> そうだね。まだ全体の八割か九割しかやられてないんだから、まだまだ戦えたよね。
弘安の役の後の意見具申には「現状でもまだ戦える」的な意見は見られないし、>>350にも触れたけど
相威の上奏でも「まずこちらの戦艦を修造し軍も練兵を重ねて体勢を立て直し、先方の防備が緩みなどが
見られような時期を見計らい、万全を期してから再度遠征を行うべきだ」と述べているようだから、
文永の役の時の金方慶ではないけど、遠征軍が帰還した直後では「まだまだ戦え」るとかは無理だろう。

355:名無し三等兵
09/05/12 21:13:24
生存3人とか中国の史書は無茶苦茶な所が多いな
他の時代もそんなのだらけ
船団が壊滅約7割が溺死ってのが実態に近いのか

>>347 >>350

Wikipedia(>>344)も本当にどうしようもない
第3次ソロモン海戦の日米の損害とか両者出鱈目だらけになってる

356:名無し三等兵
09/05/12 21:53:29
江南軍十万のうち三人生還じゃなくて
置き去りにされた十万のうち三人脱出できたってことか

>>345
三人くらいなら良かったようだね
棄民が1万4000~2万8000還ってたら首が跳んでたな

357:名無し三等兵
09/05/12 22:21:58 XSNlVkxM
>>337 河野水軍の子孫としても河野六郎通有、河野通盛親子が出てて嬉しいです。


358:名無し三等兵
09/05/12 23:25:27
>>355
煽りでなくご自分で編集してみることを勧めるよ。

359:名無し三等兵
09/05/13 03:21:34
>>354
いや、>>353は単に皮肉を言っただけなんじゃ・・・

>>357
御子孫の方ですか。
国難に立ち向かった武士を先祖に持つのはさぞ誇らしいでしょう。
私の先祖なんて室町時代にヒャッハーやってたゴロツキのようですw

360:名無し三等兵
09/05/13 15:06:55
>>288
はい↓
上天眷命 “皇帝奉書日本国王:朕惟自古小国之君,境土相接,尚務講信修睦,
况我祖宗受天明命,奄有区夏,遐方?域畏威?德者,不可悉数。朕即位之初,
以高麗无辜之民,久瘁鋒鏑,即令罷兵,還其疆?,反其旄倪。高麗君臣,感戴来朝,
亦雖君臣,而歓若父子。計王之君臣,亦已知之。高麗,朕之東藩也。日本密迩高麗,
開国以来,時通中国,至于朕躬,而无一乘之使以通和好。尚恐王国知之未審,
故特遣使持書布告朕心,冀自今以往,通問結好,以相親睦。且?人以四海為家,
不相通好,豈一家之理哉?以至用兵,夫孰所好,王其図之。” 不宣白
どうみても友好的

361:名無し三等兵
09/05/13 15:26:44
訂正

上天眷命 “皇帝奉書日本国王:朕惟自古小国之君,境土相接,尚務講信修睦,
况我祖宗受天明命,奄有区夏,遐方昇域畏威懐徳者,不可悉数。朕即位之初,
以高麗无辜之民,久瘁鋒鏑,即令罷兵,還其疆場,反其旄倪。高麗君臣,感戴来朝,
亦雖君臣,而歓若父子。計王之君臣,亦已知之。高麗,朕之東藩也。日本密迩高麗,
開国以来,時通中国,至于朕躬,而无一乘之使以通和好。尚恐王国知之未審,
故特遣使持書布告朕心,冀自今以往,通問結好,以相親睦。且経人以四海為家,
不相通好,豈一家之理哉?以至用兵,夫孰所好,王其図之。” 不宣白

362:名無し三等兵
09/05/13 16:43:58
↑の日本語訳をどうぞ。

天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!

363:名無し三等兵
09/05/13 17:02:50
コピペ探すのに何年かかってんの

364:名無し三等兵
09/05/13 17:28:26
どこが平和的なんですか?

365:名無し三等兵
09/05/13 19:13:06
そもそも鎌倉幕府より過激な対応した国も沢山あるしw

366:名無し三等兵
09/05/13 19:13:53
歴代中華帝国の文章も、もし残ってればまあ似たり寄ったりな天上天下唯我独尊っぷりなんだろうなとは思うw

が、それをフォーマットだからってそのまま使うのはどんだけ無能なのか、ボコボコにしてやんよとマジで思ってたかのどちらか。

367:名無し三等兵
09/05/13 19:16:32
>>362
上のほうで既に突っ込みを受けてますね。

368:名無し三等兵
09/05/14 03:04:11
>>360-361
冒頭が「大蒙古皇帝書」ってなってないうえ末尾の紀年がないから多分『元史』日本伝あたりからの
コピペなのだろう。

ちなみに、東大寺尊勝院に宗性という人が著した『調伏異朝怨敵抄』という文書に「蒙古國牒状」として
1268年に高麗牒使・潘阜がもたらしたクビライからの国書が書写されていて、現在も東大寺に所蔵されて
いるんだそうな。

↓はwikiに掲載されているもの。
URLリンク(ja.wikipedia.org)



369:名無し三等兵
09/05/14 03:04:52
>>368のテキスト化したもの。

上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
 日本國王朕惟自古小國之君
 境土相接尚務講信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異
 域畏威懐徳者不可悉數朕即
 位之初以高麗无辜之民久瘁
 鋒鏑即令罷兵還其疆城反其
 旄倪高麗君臣感戴來朝義雖
 君臣而歡若父子計
 王之君臣亦已知之高麗朕之
 東藩也日本密邇高麗開國以
 來亦時通中國至於朕躬而無
 一乘之使以通和好尚恐
 王國知之未審故特遣使持書
 布告朕意冀自今以往通問結
 好以相親睦且聖人以四海為
 家不相通好豈一家之理哉至
 用兵夫孰所好
 王其圖之不宣
   至元三年 八月 日

(紀年が至元三年(1266年)となっており、擡頭、平出がすっきりしているため、
 現在、この東大寺蔵文書は最初の国書のかなり正確な写しと考えられている。)


370:名無し三等兵
09/05/14 04:04:22
>>369の書き下し文。東大寺蔵文書の国書を引用される先生方の読みとだいたい合っているはずだが、
>>369も含めて原文とで転写間違いがあったら寛恕願いたい。

=========================
上天眷命
大蒙古國皇帝、書を
 日本國王に奉る。朕、惟みてば古より小國の君は
 境土を相接す。尚(たとい)務めて信を講じ睦(むつみ)を修(お)さむ。況んや我が
祖宗は天の明を受け、命區夏を奄有(えんゆう)す。遐方の異
 域は威を畏れ、徳に懐(なつ)く者、悉(ことごと)く數(かぞ)うるべからず。朕、即
 位の初めに高麗の无辜(むこ)の民の久しく
 鋒鏑(ほうてき)に瘁(つか)れるを以って、即ち兵を罷め、其の疆城(「域」の誤りか)に還し、其の
 旄倪(ぼうげい)を反えせしむ。高麗の君臣、感戴して來朝せり。義は
 君臣と雖(いえ)ども、歡は父子の若(ご)とし。計るに
 王の君臣も亦(また)、已(すで)に之を知らん。高麗は朕の
 東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)す。開國以
 來、亦時に中國と通ず。朕が躬(み)に至っては、而(しか)るに
 一乘の使の以って和好を通じる無し。尚お恐るらくは、
 王國之れを知るも未だに審(つまびら)かならざるを。故に特に使を遣わして書を持せしめ、
 朕が志を布告せしむ。冀(こいねが)わくは自今以往(じこんいおう)、問を通じ
 好みを結び、以って相(あい)親睦せん。且つは聖人は四海を以って
 家と為す。相(あい)通好せざるは、豈(あ)に一家の理ならん哉(や)。
 兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ。
 王、其れ之れを圖(はか)れ。不宣。
   至元三年 八月 日

=========================
この至元三年の国書が、モンゴル帝国(および元朝)の命令文としてどういう体裁の代物なのか
一応説明する必要があるし、>>362はすんごい大雑把な意訳なのでちゃんとした訳文をどっかから
また引用しようかと思うが、それはまた今度にして、取り敢えず原文と書き下し文だけで。

371:名無し三等兵
09/05/14 09:07:42 BGAPJSo4
素直に読む場合>>362は誤訳相当のミスリードだらけで意訳ですらない
訳というより自分の主観を受け取った国書風味に仕立て上げただけの代物

372:名無し三等兵
09/05/14 10:24:31 7agdZc0U
ネタニマジレスカコワルイ

373:名無し三等兵
09/05/14 10:25:57
あなたが和訳してみたらどうだろう?なぜやらないの?

374:名無し三等兵
09/05/14 11:07:07
>>353にマジレスした件でもそうだが、軍板とはいえ
所詮ここは2ちゃんなんだから、もう少し肩の力抜いてもいいと思うぞw

375:名無し三等兵
09/05/14 12:02:46
2ちゃんでここまでネタにマジレスする人
久しぶりに見た気がするw

376:名無し三等兵
09/05/14 12:32:31
かつての山野氏を思い出すな

377:名無し三等兵
09/05/14 12:33:42
論破されたからネタと言う事にして誤魔化そうとしてる様にしか見えんね。
>>219とか>>222は忘れるつもりか?

378:名無し三等兵
09/05/14 12:38:56
友好なんて無理あるだろw
周囲を侵略か属国化してる国が
軍事力の行使を匂わせているんだからな。

379:名無し三等兵
09/05/14 13:26:23
論破きました
痛いこちゃんが貼りついてるみたいね

380:名無し三等兵
09/05/14 14:27:31
一方的な勝利宣言ってあの国の人かよw
なんかヤケにあちらの肩を持つなあと思ったらやっぱり
高麗人の子孫だったのかwww

381:名無し三等兵
09/05/14 14:39:28
>>379-380
具体的な反論は何一つ出来ない低脳が何か喚いてるようですね。
かわいそうに。

382:名無し三等兵
09/05/14 15:40:51
>201 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

>206 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/04/28(火) 14:41:43 ID:???
>>205
>帰ったら載せてやるよ国士さんw

暴れてるのはこの人?

383:名無し三等兵
09/05/14 16:01:26
>>381
>>378なんだけど俺の主張は無視なんだな。

384:名無し三等兵
09/05/14 17:28:08
>>382日本人の全員が全員国士様ではない、ってことだね

>>383
どこに軍事力の行使を匂わせてるんだよw
最西の未開地域にあったフランス族やイタリア諸部族とは友好関係だし
インドやシャムは侵略も属国化もされず交易関係ありだから
日本も海の向こうだから通商関係のみを求めても不思議じゃあない

385:名無し三等兵
09/05/14 17:45:47
ゾンビきめえw

386:名無し三等兵
09/05/14 17:49:24
ループさせることが目的

387:名無し三等兵
09/05/14 17:53:25
無双国士の糖質患者様やべえな

388:名無し三等兵
09/05/14 18:15:56
ふ ふ ふらんすぞく?

389:名無し三等兵
09/05/14 18:27:56
>>359
うーん、皮肉とか煽りの類いだろうことは承知しているけど、どうもその「ネタ」すら
鵜呑みにして、今は亡き元寇スレの後半みたいに中身のないただの煽り合戦になるんじゃ
なかろうかと思って、敢えて「ネタニマジレス」してみたんだけれど・・・
あんまり効果なかったかも(汗

自分としては文永の役にしろ弘安の役にしろ、元朝側と鎌倉勢側とどちらが勝ったとかいう
話よりも、記録に残る数字やデータが実際問題どこまで現実味があるかどうかに関心があるので、
断片的でどこから来たとも知れない情報で妄想を凝らして煽り合戦で華やぐよりかは、ある程度
しっかりした情報ソースを持って来て、実際当時や近い時代ではどう言われていたかとかを
見て行った方が生産的なんじゃないかなあと。

>>374
>>362的なネタはネタとしてあっても全然良いと思うけど、ただ、それしか無くて元のソースが
全然出て来ない→誰も知らない、という状態でそのまま実際の歴史的な話をするとかになったら
そーいう状況はちと不健全が過ぎるので、スレの流れがどうなるかは分からないけど、一応ちゃんと
元ネタが出せるなら出した方が良いと思って、ここでもまあちと大人気ないかもと思いつつ
敢えて「ネタニマジレス」ということで(w

390:名無し三等兵
09/05/14 18:54:14
おk把握。まあでも、この手のスレじゃあ
ある程度基地外じみた煽り合いも起こるのは仕方ない。
でも幸いな事に軍板住人はスルースキルには定評があるし
あんたみたいにどちらかと言えば、双方の事情とか詳しい経過なんかに興味があるから
結局思想に凝り固まったレスの応酬になった日本史板みたいな事にはならないとは思うよ。

391:名無し三等兵
09/05/14 19:19:26
ここまで大げさに用意して本質的にはなんらネタコピペと変わらないわけだが。

>兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ。
一方的に属国になれといっておいて、これでしめる時点で実力行使満々だよな。
ましてすでにことごとく隣国を侵略しているのに。

>フランス族やイタリア諸部族とは友好関係だし
なんだこれ?いざとなればネタだとか言って逃げるつもりか?

392:名無し三等兵
09/05/14 20:02:25
>>384
至元三年の国書(いわゆる「蒙古国牒状」)は「皇帝」の出した国書としてはあまり高圧的な表現が
使われておらず、中華思想に良く見られる鷹揚・寛大な皇帝像に基づいているような表現で占められているが、
鎌倉時代後期から室町時代以降、この「蒙古国牒状」はだいたい「無礼な書」だという評価が一般的だった
みたい。
(モンケが陣没した直後にクビライが帰還した開平府から南宋皇帝に宛てた国書の内容が伝わっているが、
 「こそこそと裏でこちらを妨害するくらいなら、軍備を整えでもして再度の会戦の時まで首を洗って待っとれ!」
 的な内容で、例の杉山センセなどは至元三年の国書に比べて、こちらの方があからさまに恫喝的で威嚇的だと
 評しているようだ)

具体的に牒状のどういったところが「無礼」とされたのかは、資料中でははっきり書かれていないことが
多いが、中世史の研究者の人たちは、文末の「兵を用いるに至っては、夫(そ)れ孰(たれ)か好む所ぞ」
という箇所が当時の人たちにかなり引っ掛かったようで、そのことから「無礼な書」と看做されたんだろう
と見ているようだ。

このスレでも関連スレでも何度か名前が出て来る『八幡愚童訓』の主だった現存する古い諸本には、
(菊大路家本や内閣文庫本など)どれも実は「蒙古国牒状」が丸ごと載せられていて、江戸時代中期の
漢学者・橘守部は『元史』からの転載だろうと断じていたっぽいけど、『元史』日本伝ではなくて、
>>368-370で上げた東大寺蔵の「蒙古国牒状」の系統のものらしい。(いずれも東大寺の国書写しと同様に
全文が載り訓点が附してある。橘守部が色々と批判した群書類従本などにもちゃん訓点付きで全文載っている)


393:名無し三等兵
09/05/14 20:04:31
>>392の続き。
室町時代中期に歌道や文芸の分野で活躍した、後崇光院こと伏見宮貞成親王(1372年-1456年)という人が
いるけど、彼の「宸筆」つまり直筆した『八幡愚童訓』の断片がいくつか残っていて、その断片のひとつが
実はこの『八幡愚童訓』載録の「蒙古国牒状」の後半部分だったことが分かっている。
>>369で言えば12行目の「高麗開國以來」から末尾の「至元三年 八月 日」までの全文にあたる。

単に過去に蒙古からもたらされた国書が無礼な内容だったという伝聞的なものではなくて、「蒙古国牒状」の
全文自体が『八幡愚童訓』という書物を介して室町時代には割と知られていたということがなかなか興味深い。

>>390
甚だ�ォクス
自分は元々世界史板の方で、日本史も中国史も専門でなかったけど、断片的な資料を引っ張て来て
牽強付会というか我田引水な論法で放言する輩が横行する状態に我慢がならなくて、自分の直接の
専門でもなかったけど関連する資料を集めて自分なりに突っ込み的なレスを付けていたら、元寇スレは
大荒れに荒れて今に至るという感じ。日本史板も世界史板も年々住民のスルースキルが低下していて、
煽りはスルーしつつ資料を出し合う的なやり方は廃れつつあるのかと正直がっくりしていた。
(なので鎌倉時代の文書資料とか元代の漢籍については、活字本とかの翻刻文や訓点がないと読めない)

歴史板の住人なので軍事板にはお邪魔させてもらっている感が今でも強いけど、割と冷静に煽りを
スルーしてレスを読んでくれる人も多くて非常に有難い。


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