09/01/12 00:14:19
記者:1953年のスターリンの死後、マレンコフはソ連邦閣僚会議議長に任命されました。
なぜ彼はこの最高ポストにとどまることができなかったのですか?
ゲ氏:それは自父が策略家ではなかったためです。むしろ彼は優秀な管理者でした。
一方フルシチョフ時代(1953年9月に中央委第一書記に就任しました。)には、権力を全く分割しませんでした。
しかしながら、かつて彼らは友達づきあいをしていたように思います……にもかかわらず、父とニキータ・セルゲイエヴィチは全く性格と
教養のレベルが違っていました。フルシチョフは父の成功を妬んでいました。父は人民の間で高い人気があったからです。
父は閣僚会議議長の職にあったとき、農民の税負担を軽減し、重工業の平和産業への切り替えプロセスを開始しました。
この彼の政策は1955年1月総会で非難され、まもなくマレンコフは辞任し、最高ポストをニコライ・ブルガーニンに譲りました。
初めのうち父はソ連邦発電所大臣に任命されました。しかし二年後、まったく突然にカザフスタンに派遣されました。
ウスチカメノゴルスク水力発電所、そのあとにはエキバストゥーズ国立地方発電所の長を務めるためです。
その時私たちは初めて仕事のことについて話し合いました。
1961年、彼は党を除名されました。その後の彼は復権に向けた努力をしませんでした。父は既にフルシチョフの作り上げた
システムに入り込むことができなくなっていたのです。
ところで姉の回想によると、フルシチョフが更迭される少し前にエキバストゥーズに電話があったのを目撃したそうです。
母が電話のところへ行きました。電話の人物はフルシチョフの助手を名乗り、父にモスクワに戻ってくるようにというフルシチョフの
勧告を伝えてくれるように頼みました。父に国家管理の要職につくように申し出てきたのです。
ニキータ・セルゲイエヴィチは父と相談することを望んでいて、彼に受話器を渡すように頼まれました。
父はこの件について、「その人物と話すことなどない」と言い放ちました。