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ゲ氏:家族に関して言えば、1924年に私の姉、ヴォーリャが生まれました。そして1937年と1938年に私の兄アンドレイと私が
この世に生を受けました。仕事のない自由な時間には父は積極的に私たちの教育に加わりました。
特に私たち兄弟にチェーホフの作品を読んで聞かせるのが好きでした。今でも"Налим"や"Хирургию"を読む
彼の声を思い出します。彼は子供たちの興味のありかを見つけだすことができ、仲良くやって行けたことを指摘しておきます。
日付のはっきりした子供時代の最初の記憶は43年2月のことです。その頃私は4、5歳の子供で、父はひどく太ったようにみえました。
既に年金生活になってから、父はその頃急激に目方が増した理由を説明しました。
彼は太ってしまった原因は戦争中の不規則な食事だと言いました。
記者:ゲオルギー・マクシミリアノヴィチは戦争中のことをどう言っていましたか?
ゲ氏:戦争の初めに、彼を除く私たち家族全員はサマラに行きました。その時期で特に覚えていることはありません。
姉の回想によると、母は機会あるごとに姉を連れてモスクワに行っていたそうです。
父はその頃日に4-5時間の睡眠をとりつつ昼夜働いていました。空襲警報があって皆が防空壕に向かったときに、
彼は家に行って寝ていました。最も危険なときであった41年の秋、スターリンと全閣僚は一時モスクワを離れたことがありました。
全ての国家指導者のなかで父だけがモスクワに一人とどまりました。
姉の回想によると、日夜他の州や共和国の幹部たちがモスクワの無事を確認しようと電話をしてきたそうです。
父が家に居る時、姉はそうした電話を聞いて父を起こしたくはなかったのですが、
父はパニックを防ぐためにそうしなければならないと言っていたそうです。
当時父は航空機生産を管理しており、それにより社会主義労働英雄称号を授与されました。
主に工場をまわりましたが、そこを飛び出して前線に居ることもありました。
彼の運転手の話によると、彼はレニングラード方面軍とスターリングラード方面軍に行きました。
封鎖されたレニングラードにも飛びました。