09/06/28 19:25:31
一方、座学の成績は相変わらずのトップクラス。病院内研修も搬送を除けば上々の出来で、
筋肉バカの少ない衛生科とは言え野戦での実技を得意とする生徒から見ればなんとも鼻持
ちならない存在に違いない。実際「搬送もろくにできないくせに」「戦場では役立たず」と
いった陰口も聞こえてくるのである。
964:光と影8
09/06/28 19:28:35
「智子さぁ」
「ん」
合成皮革の張られた安手のソファに並んで腰を下ろし、ふたをはがし、透明プラスチック
の平べったいスプーン、というよりサジでプッチンプリンをすくいながら、まゆみが言う。
ここは学生ラウンジ。鬼の憲兵隊長もここで風呂上りのコーヒー牛乳を楽しむという、狼
とウサギとが一緒に傷を癒す秘湯にも例えられる防女生の憩いの場である。普通科から衛
生科に移って以来1年が経ち、お互い見かけることはあってもなかなか話をする機会のな
かった古川まゆみと風呂場で一緒になり、真夏の訓練場で汗まみれになった身体を洗いな
がら、湯船に浸かりながら、乾いたタオルでさっぱりと拭いながらおしゃべりしても話は
尽きず、消灯までの短い時間をラウンジで過ごすことにしたのだった。ラウンジが閉鎖さ
れる2100時まであまり時間がないのだが、数少ない憩いの場だけに多少の逸脱は許されて
いる。クリスマスなど、夜の舞鶴に繰り出すことに希望を持てず、さりとて自室に引きこ
もる侘しさに耐えられない乙女たちは、このラウンジでさびしく夜を明かすことさえある
のだ。
「んで、どうよ、衛生は」
「うん……楽しいよ」
「ウソつけ!」目の前に、びしっとサジが突きつけられる。
965:光と影9
09/06/28 19:29:27
「あたしにウソは許さないよ」
「ウソじゃないよ」
「いいや、あたしの目は節穴じゃない」
智子の右ひざに自分の左ひざをくっつけるようにして、丸っこい顔が真剣な目で見つめる。
まゆみってかわいい、と思う。
「オーラが暗いんだよ」
オーラ?智子が笑うと、ふざけないの!と叱られた。
「普通科のときもいろいろ辛かったと思うけどさ、それでも」
なんて言うかなあ。サジをプリンに突っ込むと普通科らしい短髪の頭を掻きながら
「ほら、あんた、育ちがいいじゃん」
「そんなことないよ、普通のサラリーマンの家だよ」
「それでも比べようによっちゃあ、充分育ちがいいんだよ。おしゃべりじゃないし、
『わたし』って言うし」
「怒ったときは『あたし』って言うよ、あと卵かけごはんとか」
「あんたがご飯に卵かけて食べるのは知ってるけど、貴族じゃないんだからそれぐらい
食べるでしょ。んで、その育ちのよさが明るさになって表にあらわれてたというか
なんというか」
んで、どうよ。さらに追及されて、智子はぽつりぽつりと話し始めた。
「うーん……それはほとんど『円周防御』だねえ」
ため息混じりにまゆみが言う。「回り中、敵だらけじゃん」
「私が担架落としたりするのがいけないんだけどね……」プッチンプリンをひとさじ。
「でもあんた、勉強は異常にできるから教官の受けはいいんじゃないの?」
「学科の教官はね。でも、それが気に入らないひともいるみたい」
「そんなこと言っても、身体は小さいんだし頭はいいんだから仕方ないじゃんねえ」
「ただの看護婦、とか言われるんだよね」
「いまは看護師じゃないの?」
「そこをあえて『婦』っていうところがね」
でも、それはもういいんだ、大丈夫。笑顔を見せる智子だが、たしかにどこか翳りがある。
「あんた、弱そうで強いから却って心配なんだよね」
またまゆみのため息。「やるときゃやるからねー」
966:名無し三等兵
09/06/28 20:51:42
連投制限ですか?
967:光と影10
09/06/28 20:53:16
多少愚痴めいてしまったが、やはり打ち明けられるのは親友だけである。
いつになくリラックスして、智子はラウンジを見回す。
あっちに3人こっちに5人と数個のグループに分かれた生徒たちが思い思いの飲み物や
スナックを手に雑談を楽しんでいる。
近くのソファでかしましくおしゃべりしているのは、ふたりの6号生徒だ。おそらく今日
の演習で、初めての状況設定があったのだろう。興奮さめやらずといった風情である。
(私もそうだった……初めて自動小銃を触ったときなんか、やっぱりあんなふうに……)
はしゃぎながら演習のおさらいをする様子を微笑ましく感じながらも、自分はもう普通科
ではないという一抹の寂しさ。
「……んで突撃するときにさ、模擬手榴弾をこう、びゅーんと」
投げる身振りをした途端、手に持ったブリックパックの「いちごオーレ」がすっぽ抜けて
飛んで行き、ちょうどラウンジに入ってきた小柄な生徒の胸のあたりに当たった。ストロ
ーが抜け、わずかながら中身が飛び出して制服を汚す。
「あちゃ~すみませ~ん、あ……」
立っていたのは、身長は140センチちょっと、黒髪を後ろで三つ編みに束ね、大きな眼鏡
の後ろにはややつり上がった目、「白でも黒でもない中立」を意味するグレーの制服に身を
包んだ風紀委員長、通称「泣く子も黙る憲兵隊長」であった。なにか気になることでもあ
ったのか、今夜は消灯前の巡察を隊長自ら行なっているらしい。たちまち震え上がる6号
生徒に向かい、あごをしゃくるようにしながら低い声で
「貴様らは上級生に対する礼儀というものを心得ておるか」
血の気を失い、膝を震わせながらも不動の姿勢をとるふたりの6号生徒。
「しかも、すでにラウンジの閉鎖時間を過ぎているではないか」
隊長の後ろに控えているのはひとめでハーフとわかる憲兵だ。180を優に超える長身に赤い
髪。自分とは対照的な、あまり怖そうには見えないたれ眼の少女を見上げ、
「こうした緩みが風紀の乱れを呼ぶ。巡回中の委員を3人ほど呼んで……」
968:光と影11
09/06/28 20:54:10
突然、智子が立ち上がった。
「ちょっと待ってください!」
まゆみは仰天した。鬼の憲兵隊長に意見するなど、4号生徒の分際で許されるわけがない。
智子も、いや下手をすればまゆみだって巻き添えで連行されかねない。
「ちょっ、智子やめて!」
しかし智子は委細構わず、怪訝そうに振り向く隊長に向かって
「わざとしたわけではありません、それにまだ6号です」
「……」
「失礼は私からもお詫び致します。しかし、演習のことで少し興奮していただけです。
むしろこうした時間にも演習の振り返りを行うのは、前向きで評価できる姿勢であると
思量致します」
ゆっくりと智子に向きなおる隊長。
「利用時間のことを仰るなら、我々全員同罪です。彼女たちと同じ処罰をお願いします」
自販機のぶうん、という低い音だけが響く静まり返ったラウンジに、無言のどよめきが満
ちる。全員同罪だって?冗談じゃない!
ハーフの憲兵が長身を二つ折りにするようにして何事かささやく。軽くうなずく隊長。
「貴様が岸本4号生徒か、うわさどおりの美人だな」
「……」
「そのわりには、大立ち回りの挙句に普通科を飛び出したとも聞いた」
やや青ざめた、しかし凛とした表情でにらみあげる智子。
「ひとを見下ろして喋るのは私も久しぶりだ、その美貌と……」
にやりと笑うと
「……身長に免じて、今回は見逃してやろう」
次の瞬間、まるで打ち合わせていたかのようにハーフの隊員が叫ぶ。
「2159時までラウンジの利用を許可する!」
くるりと踵を返し、靴音高く去っていく憲兵隊長。ハーフの隊員がいたずらっぽい、
しかし意外と優しそうな視線を智子に投げながらあとに続く。
(見下ろして、ってほとんど変わらないじゃないの!)無言で悪態をつく智子。
胸を押さえてソファにへたり込む6号生徒。呆然と見送りながらまゆみが呟く。
「……やめよう、こういうのはもうやめようよ、心臓に悪いよ……」
969:光と影12
09/06/28 20:55:03
湾口を吹き抜けていくのは真夏の熱風ではあるが、どこかさわやかな涼気を含んでいる。
久しぶりに外出許可を申請した智子は舞鶴湾の入り口を臨む公園の柵にもたれて海を眺め
ている。柵の前にはさらに海釣護岸が設けられており、腰高の柵の先が海である。休日の
太公望たちが釣り糸を垂れている。
ここは舞鶴市千歳地区に関西電力の協力で整備された「舞鶴親海公園」である。海水を引
きこんだ「親水池」や豪華客船をイメージした関西電力の舞鶴発電所PR館「エル・マール
まいづる」があり、日本初の海上プラネタリウムのほかエネルギー体験館や客船歴史館な
どの施設が整っているので、家族連れには絶好の行楽スポットだ。また全長120mの釣り
護岸には多くの太公望が竿を並べている。のんびりした空気の中でカメラを構えるのは、
舞鶴港を出入りする船舶、ことに第3護衛隊群や舞鶴地方隊の艦艇と舞鶴海上保安部の巡
視船を狙うマニアたちである。
もともと「陸」志望の智子だがそこは防女生、湾を出入りする艦艇の名前まではわからな
くても型ぐらいはわかる。目の前をゆっくりと航行していくのは艦番号154のあさぎり型
護衛艦。智子の美的感覚にマッチするのは白にブルーのロゴが入った海保の巡視船なのだ
が、戦闘艦としての凄みはつやのない灰色に身を包んだ護衛艦のほうが上である。
970:光と影13
09/06/28 20:56:11
(「海」もいいかもしれないなぁ……)
白い帽子の広いつばの陰で、智子は眩しさに目を細める。もたれかかった柵は太陽に灼け、
白いブラウスの袖越しに両ひじが熱い。真夏の風が紺のフレアスカートをなびかせる。
いまさら海上要員になろうとは思わないが、普通なら中学3年生。演習場の高台から日本
海を航行する護衛艦を見下ろして「やっぱりスマートなのは海!」と思い、空を横切るC-130
を見上げて「輸送機パイロットなんかもいいな」などと、自分の将来を思い描くのも自然
である。普通の少女が歌手やタレント、あるいは医師や弁護士にあこがれるように、自分
が砲雷長として戦闘を指揮する姿や、機長として危険な戦闘空域に突入する姿を思い浮か
べるのだ。
それだけではない。陸上要員としての自分に限界を感じていることもある。体格は小さい
し、腰は痛い。負傷兵を背負ったり医療テントを設営したりするよりも、ブリッジで戦闘
を指揮したりコクピットに座って飛行機を操縦したりするほうが自分には向いているので
はないかと思うこともある。もちろん砲雷科やパイロットが肉体的に楽なわけではないの
だが、所詮は15歳。まだまだ甘いところがある。
防女での生活がつらくなったとき、智子はここにやってくる。地元のカップルや家族連れ、
釣り人ぐらいしかいないこの公園を訪れる防女生はほとんどいない。ひとりでぼんやり海
を眺めたり空を見上げたりしていると、いやなことをたくさん思い出す。
(あー、もう!)ひとりで小さく頭を振ったりして鬱々としているのだが、そのうちに輝
く波、流れる雲、芝生で遊ぶ子供たち、大物を釣り上げたおじさんなどが、いやなことも
含めたひとつのかたまりになって頭の中を占拠し始める。いやなことを忘れられる訳では
ないのだが、厄介な仕事を机の上から引き出しの中にとりあえずしまいこんだような気分
になれるのだ。
971:光と影14
09/06/28 20:58:16
「ごめん、ちょっとどいて!」
カメラを構えた少年が、突然智子を肩で押しのけるようにした。足許のコンクリートに
置いた自分のトートバッグにつまづいて、少しよろける。
(ちょっと、なによ……)
物思いにふけっていたところを邪魔され、半身になって非難の眼差しを投げるが、相手は
ファインダーに目を押し付けたままだ。かしゃかしゃかしゃ、と軽い連続音。ストリート
風のルーズで真っ赤なTシャツは、重ね着に見えるレイヤード風デザイン。とくればボト
ムは6分丈のずり下げパンツかと思いきや、細身のジーンズでタイトにキメている。流行
りから微妙に外したファッションに長めの髪、どことなく都会の雰囲気が漂う。ようやく
ファインダーから目を離した少年は、振り返ってニッと笑った。歯が白かった。
972:光と影15
09/06/28 20:59:28
「地元のコではなさそうだと思ったけどね」
四阿(あずまや)のベンチから、智子は少年と並んで輝く海を眺めていた。親水池で遊ぶ
幼児の歓声が聞こえる。海からの風がふたりの髪をなびかせる。
中学最初の夏休みを利用して親戚の家に遊びに来ている、あと2週間ほど滞在するつもり、
艦船が好きで今日は「あまぎり」を狙っていた、という話を聞いて智子は納得したように
言った。
「って、あんたもこのへんの人じゃないだろ?」
中1のくせに、妙に大人びた口の利き方をするヤツだ。
ある東大生から聞いた話だが、「東大です」と言った途端にそれまで普通に話していた相手
の態度が急によそよそしくなることがあるそうだ。防女生もこのあたりでは一目置かれる
存在である。制服可愛くて、進学レベルが高くて……軍事訓練を受けている!ときては、
東大生以上に色眼鏡で見られるのだ。
自分からは防女生と名乗らないことにしている智子はちょっと困ったが、
「学校の関係で、こっちに来てるの」と簡単に答えた。
「へ~国内留学?スポーツでもしてるの?それともなんか特別な勉強?」
思わず「衛生……」と答えかけ、あわてて口をつぐむ智子。すると少年は
「あー、あの、『N』だっけ?」
と西舞鶴の中心部からややはずれた場所に位置する私立高校の名を挙げた。あそこの看護
科を出て看護師になってる従姉がいるんだ、従姉って言っても随分年上なんだけどさ。
看護学生と勘違いして「特別な勉強のために都会から来ている」と勝手に納得したらしい。
一般学生、しかも高校生と間違われたのは好都合であるが、だましたようで少々後ろめたい。
973:光と影16
09/06/28 21:02:15
「それにしても、ほんとに高校生?ちっちゃいよなー」
「……中1に言われたくないわね」
少年も小柄には違いないが、中1男子の平均身長は152センチ前後。
どう見ても智子のほうが小さい。
「しかもダサい格好してんなあ。イマドキの高校生にしちゃ……」
「看護学生のおねえさんは、いろいろと厳しいの!」
白いブラウスに紺のスカート、茶色の靴。さすがにブラウスの衿にはレースの飾りがある
が、いまさらのように日焼けを警戒して長袖にしたのが敗因か。下着が透けないように
ベージュのキャミソールを着けているのも、どこか重たい感じ―つまりはダサい雰囲気
―を醸し出しているのかも知れない。フレアスカートは膝下丈、足許はそのまま学校に
行ってもおかしくないコインローファーに白のソックス。ハンドバッグでも持っていれば
少しは違うのかもしれないが、ひじにかけているのは生成りっぽい白のトートバッグだ。
多少なりともおしゃれに見えるとすれば、緑のような青のような……いわば信号機の「青」
のような微妙な色合いのリボンを巻いた白いつば広の帽子だが、むしろ垢抜けない服装を
強調する結果となっている。
もともと清純派の智子だが、「学生らしい清楚な服装」が強調される校風の上、持ち込める
私服の数にも限りがあると来ては、
(これでもアイテム限界なのよね……)
ただ、相手は所詮中1のガキである。なにも媚びる必要はない。ここはおねえさんらしさ
を強調しておくに如くはなし。と思ったところに
「ま、あんなのよりはましだから、気にするこたないよ」
茶髪のちゃらちゃらした男といちゃつきながら歩く、金髪焦げ顔の田舎ギャルをあごで指す。
「……一緒にしないで」完全になめられている。
974:光と影17
09/06/28 21:03:51
(大丈夫、もう間に合う……)小走りから早歩きに切り替えて、智子はほうっと息をつく。
日射しは多少弱まったものの却って肌に粘りつくような暑さが地表を覆うなか、足早に門
限の時刻を目指す生徒が他にもちらほらいるようだ。
立哨に身分証を見せ、正門をくぐったところで
「……ので、私は先に戻る。引き続き正門付近の巡視を頼む」
憲兵隊長だ。ラウンジのときも一緒だった赤毛の隊員に軽く手を挙げ、本部に戻ろうとし
ているらしい。さすがに気まずいが引き返すわけにも行かず、立ち止まって私物の帽子を
取り10度の敬礼。
「お、貴様は……」
「岸本4号生徒であります。ただいま帰りました」
「門限ぎりぎりにご帰還とは、逢引でもしていたのか?美人は違うな」
隊長の皮肉っぽい軽口。(逢引って、いつの時代よ……)智子は直立不動の姿勢に精一杯の
抵抗を込める。大丈夫、今の私は学生らしい清楚な服装、のはずだ。膝下丈のフレアー
スカートが微かに揺れる。
「では、あとは頼む」
二人並んで隊長を見送ると、ハーフの隊員がいきなり長身をふたつに折って智子の顔を
覗き込む。顔が触れ合うほどに近づき、思わず一歩退く智子。
「こないだはビックリしたね~」智子の目の前で、たれ目がウインクする。
「は?」
キリンが首を上げるようにたれ目が遠ざかる。
「リンは……隊長はネ、そんなにガチガチじゃないヨ?」ボサボサの赤い髪をかきあげて、
「こないだも、あれはラウンジのみんなを少しオドカシタだけ……最近ちょっとたるんで
るからネ、連行なんかしないヨ」
あの6号ちゃんたちはダシにされてかわいそうだったけど。そう言って朗らかに笑う。
「防女生はきちんとしてなきゃいけないけど、ガチガチじゃ暮らしていけない」
ここは、私たちの家だからネ。たれ目が、ちょっと遠くを見るようだ。
「あなたもネ、テキリーズィ!」
大きな手が、ぱーん、と景気よく智子の背中を叩いて正門のほうへと大股に歩き出す。
門限までに多少の余裕はあるのだが、門内に憲兵の制服を認め大慌てで走りだす生徒たち
に向かって「早くしないと門閉めちゃうヨ~!」と叫んでいる。
その陽気な後ろ姿に一礼して、智子は歩き出す。
(Take it easy……か)
975:光と影18
09/06/28 21:08:21
気楽に行こうぜ!
言うは易し行なうは難し、とはこのことである。
Take it easyを心がけた一週間ではあったが、相変わらず腰は痛み、担架は落ち、上級生
からどやしつけられ、学科の教官にほめられ、陰口を叩かれる。
(もういや、本当にいやだ……)
山本沙樹に「卑怯者」呼ばわりされて以来、辞めたいという言葉だけはたとえ心の中でも
言わないように封印してきた智子だが、自分のように体格が小さく、腰に爆弾まで抱えた
者が3号、2号と進んでやっていけるのかと、不安に駆られるのである。
得意の学科を猛勉強することで失いそうな自信を支えてはいるが、小学校の担任から勧め
られたように
(私立の進学校に進んだほうが良かったかも……)
と、もう遅いとはわかっていても考えてしまうのだ。
延灯と呼ばれる就寝時間の延長を月曜から土曜まで重ねて予習復習と課題の消化に励み、
やっと日曜の外出時間を捻出した智子は、射すような日差しのなか親海公園を訪れた。
海沿いに運動広場を通り過ぎ「エル・マールまいづる」と「漁村活性化センター」との間
を抜けて護岸に向かう。
976:光と影19
09/06/28 21:09:06
(いた……!)
この前の少年が、今日は海釣護岸の柵まで進出してカメラを構えている。今日のお目当て
は舞鶴海上保安部の巡視船らしい。船首にPL-103「わかさ」の文字が見える。同じ舞鶴所
属のPLH-10「だいせん」はいかにも「砲塔」という形の40㎜機関砲と20㎜多銃身機銃
を装備しており戦闘艦らしい威圧感を漂わせているが、それに比べて「わかさ」は武装が
目立たず、低い舷側とも相俟って大型の漁船か商船のようにも見える。
(意外と渋い……)と智子が思うのもうなずけるシルエットなのである。
智子は少し離れたベンチに腰掛け、巡視船を追う少年を見守っている。なにしろこちらは
年上である。もの欲しそうに声をかけるような真似をするわけにはいかない。灼けたコン
クリートにいまや腹這いになって巡視船を狙っている少年を、おねえさんらしくあたたか
く見守っていれば良いのである。
智子はこの前と同じ、白いブラウスに紺のスカート、緑がかった青リボンを巻いた白いつ
ば広の帽子といういでたちである。ダサいと一刀両断にされたこともあって少しはおしゃ
れにしようかと考えてはみたものの、「厳しい学園生活を送る看護学生のおねえさん」とし
ての意地もあり、そもそもおしゃれに見えるような夏服を持ち合わせていないという限界
もあり、それらを「服を変えると気づいてもらえないかも知れない」というもの欲しげな
魂胆の言い訳としていることもあり……。
977:光と影20
09/06/28 21:10:32
「おれ、カメラマンになるんだ、絶対」
先週と同じ四阿(あずまや)のベンチで、少年は海に視線を向けたまま胸の前で愛機を
構えて見せた。
「ロバート・キャパとか、不肖宮島とか、知ってる?軍隊と一緒に戦争に行って、
シブい写真を撮ってくる。その写真が、新聞やテレビに出るんだ」
唐突に戦争の話が出て、智子は少し動揺する。少年はフン、と鼻で笑い
「女にはわからないだろうけどな」
悪いけど、戦争についてはあなたが足許にも及ばないぐらい知っている。実戦経験こそ
ないけれど、戦争になっても生きて、戦っていける、私たちはそういう訓練をしてるんだから。
そう思いながら、なぜか急に哀しい気持ちになるのは何故だろう。智子は急に立ち上がり、
空を指さした。
「あ、ヘリコプターだよ。撮らなくていいの?」
海上自衛隊舞鶴航空基地から離陸したSH-60Jだ。おっ、という様子でカメラを構える少年。
哨戒に出るのか、機体を傾けていままさに海峡の上空に差し掛かったところだ。白く輝く
機体に真っ赤な日の丸。水平尾翼の端部も赤く塗装されている。
「後ろのほうに小さな翼があるだろ。スタビレーターっていって、速度や姿勢によって
一番いい角度になるんだ」
スタビレーターとはstabilizer(水平安定板)とelevator(昇降舵)を組み合わせた言葉で、
水平尾翼全体が動く全遊式のものを指す。そのぐらいは智子も知っている。しかし、ここ
は普通の女の子を演じなければならない。飛び去っていく機体を指差して、
「あの赤くなってるところ?」
「え?」
「あの端っこが赤くなってるところでしょ?なんかかわいいね」
「ああ、うん」
少年はもう一度ファインダーを覗きSH-60Jの後姿を追う様子を見せたが、シャッターは
切らない。
せっかく話を合わせたのに唐突に途切れてしまい、智子は少しがっかりする。
978:光と影21
09/06/28 21:12:24
少年は再び獲物を追って海釣護岸に進出する。智子は四阿でノートを開く。少年に会えな
ければ勉強しようと思って持ってきたものだ。
今日はさすがに軍事関係のノートを持ってくるわけにはいかないので、看護英語の勉強だ。
外来の患者に対応するための例文が並んでいる。
……Do you have a reference from other doctor?
……Please fill in the medical questionnaire.
……Do you have any allergies?
難しい文ではないが、reference(紹介状)、the medical questionnaire(問診表)などは
馴染みの少ないところである。重要な部分は赤のマーカーで塗りつぶされ、緑のシート
ごしに覗くと見えなくなる。「暗記ペン」「スタディペン」などと呼ばれているが、ノート
がそのまま暗記帳になるので智子も重宝している。
「英語の勉強?」
いつの間にか戻ってきた少年がマーカーだらけのノートを覗き込む。
「読めないな」
「中1にはまだ難しいでしょ?」
からかうように言う智子に、少年は首を振って
「おれ、色盲なんだ」
979:光と影22
09/06/28 21:14:52
色盲。「盲」という字が嫌われるせいか、最近は色覚異常と呼ばれることも多い。
「色が全然わからない訳じゃないんだぜ」
黙り込んだ智子に、むきになったような口調で少年が続ける。
「色盲って言っても、いろんな種類があるんだ。俺は信号の色だって見分けられるし、
そんなに困ることはないんだ。車の免許だって取れるし、ただ」
智子からそむけるようにして、顔を海に向けながら
「あんたの帽子とスカートは、たぶん同じような色なんだろ?」
「え、うん、どっちも青というか、帽子はちょっと緑だけど」
「それが俺には全く別の色に見える」
「……」
「スタビレーターが赤いと言われても、俺には黒と同じに見えるしな」
だから赤いマーカーで塗られたノートは読めないのだ。
「そんなんで写真なんか撮れるのかって、そう思うだろ」
真夏の潮風が吹きぬけるなか、でも俺は俺の見え方で勝負すると少年は呟いた。
「それでだめでも、世界には光と影がある」
胸の前でカメラを構えなおし。まっすぐに智子を見た。
「白黒で撮ればいいんだ」
980:光と影23
09/06/28 21:15:35
「わざわざありがとう」
東舞鶴駅のホーム。緑とオレンジの車両が長く伸びている。灼けた屋根からの熱気がこも
るように蒸し暑い。
あれからまた一週間が過ぎた。少々いぶかしげな表情の教官に3週連続の外出申請を提出
した智子は、少年を見送りに来たのだ。
微笑んだ智子に、少年は窓越しに白い封筒を差し出した。
「おれの住所と名前が書いてある」
「あ……」
「一度もおれの名前聞かなかったじゃん」
そうだった。お互い名前も聞いていなかった。思わず目を伏せる。
「よかったら読んでくれよ」
「ん」
「最後までぶっきらぼうなんだな」年下のくせに、ちょっと大人びて笑う。
―行き発車しまァす、ドア閉まりまァす、お下がりくださィ
アナウンスとともにドアが閉まる。がくんとひと揺れして、ゆっくりと列車が動き出す。
「あの―」
「いい看護師になりなよ!」
緑とオレンジの車両がもう一度揺れ、速力を増そうとする。つんのめるように智子は前に出る。
「あの―!」
「また来年な!」
言うが早いか、カメラを窓から突き出した。護衛艦を撮影したときと同じ、あの軽い連続
音を立てて私をフィルムに記録しているのだろう。なにか言おうとする私。電車に向かっ
て手を伸ばす私。あきらめたように手を下ろす私。ただ立ち尽くす私。
列車は遠ざかっていく。私はもう点になっているだろうか。ポケットに右手を突っ込み、
ハンカチを引っ張り出す。一瞬の躊躇のあと、マウンド上のピッチャーのように智子は
伸び上がり、ハンカチを振る。振り向く人に構わず、叫ぶ。
「また来年なぁ!」
981:光と影24
09/06/28 21:16:59
あれから3週間が経つ。
しばらくぶりに親海公園を訪れた智子は、やや激しさを失った陽光を浴びながら海釣護岸
の柵にもたれて海を眺めている。波の音とともに湾奥の活気が伝わってくるようだ。公園
には釣り人と家族連れ、CDプレーヤーの音楽に合わせてダンスの練習をする若者たち。
少年はどうしているだろう。いつもと同じ中学校生活に戻っているだろうか。
衛生科の学生である智子も、色覚異常について詳しく知っているわけではない。自分と
違う色覚の世界がどのようなものか、わかるわけもない。
健常者である私にとって、色盲の世界は薄闇につつまれているように思える。しかし、
もしそうだとしても彼のは夜明け前の薄闇だ。太陽の光が力を増し、世界が光と影に満た
される前の薄闇。彼の夢がかなうかどうかは知らない。しかし光と影をフィルムに切り取
りながら、彼はきっと光の中を歩んでいくだろう。そうあって欲しいと智子は思った。
そして私は……自分で自分の世界を薄闇に塗りつぶしていた。訓練はつらいけど、腰は相
変わらず痛いけど、それさえのぞけば何ひとつ不自由ない生活ではないか。
木材を満載した貨物船が外海に向かってゆっくりと進んでいく。海鳥たちが白い線を引く
ように飛び交っている。晩夏の光と風、波の音、白い雲。ダンス練習の音楽が変わった。
ピアノのイントロから始まる、古いロックだ。
982:光と影25
09/06/28 21:18:25
Just a small town girl
Living in a lonely world
She took the midnight train going anywhere……
Just a city boy
Born and raised in South Detroit
He took the midnight train going anywhere......
少年の列車は、また舞鶴に来るだろうか。別の街に行くだろうか。それともあてもなく、
どこへとも知らず走っていくのだろうか。
私の乗るべき列車はいつ来るんだろう。どこに行くんだろう。
でも、なにか信じていいような気がする。何を?そんなことわからない。
でも、でも、でも……。
Some will win, some will lose
Some were born to sing the blues……
智子は立ち上がった。ポケットから白い封筒を取り出した。
私も負けない。ブルーズを歌い続けるような負け犬にはならない。あなたがカメラマンを
目指すように、私も立派な衛生隊員になってみせる。
でも、いまの私に封を切る資格はない。来年、会えるなら会えるだろう。会えないなら
二度と会うことはあるまい。
絹ごしされたような晩夏の光線のなか、細かく細かく引き裂かれた手紙は海峡を抜ける風
に吹き散らされていく。
舞い上がる紙吹雪の中を、鈍く輝く灰色の護衛艦が出航していった。
~完~
983:名無し三等兵
09/06/28 21:21:36 2s6X2t45
投下お疲れ様でした。衛生科の生徒とは珍しいですね。これからもまた来て下さい。