日中戦争(支那事変)12 参謀本部第二部支那課at ARMY
日中戦争(支那事変)12 参謀本部第二部支那課 - 暇つぶし2ch758:風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM
08/12/09 02:34:55
>>739 >>広田弘毅は「盟友(腐れ縁)」の吉田茂を上記の「大亜細亜協会」へ熱心に
>>誘い出しておりましたが、吉田はあまりの「アジア主義的」な傾向に閉口して、
>>大亜細亜協会には出席しなくなりましたw。

         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ   「絶対に面白いから!」と、自信満々に友人を
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'    同人誌即売会に無理やり連れていったのですが、
      ゙,ヘi_i][i,l\ []   会場で思い切り『ドン引き』されたみたいなものですねw。
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄

759:風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM
08/12/09 02:41:48
>>758 >>ホロコーストは語源的にはスケープゴートと同じなのに、
         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ   
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'    目からウロコ!
      ゙,ヘi_i][i,l\ []   
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄

760:名無し三等兵
08/12/09 02:44:24
>758
高級官僚が政治団体の会合にのこのこ顔出しちゃ不味いだろう。
この辺の広田の脇の甘さというか無神経さはなんなんだろうね・・・?
距離を置いた吉田のほうがまともで良識的だったんじゃないの。
この辺の感覚と処世は考察の価値はあると思う。
まあ当時は、政治活動絶対禁止のくせにゴソゴソおおっぴらにやってた軍人ドモの存在があるからその辺の意識も鈍るのかな、とも思わぬでもないが。

761:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/09 03:07:20 p7YkbpIP
>>735 >>どうせ、外交活動を任せなければいけないのなら、きちんと外相を
>>決めた方が良いのは自明なことでした―。

結局、広田内閣の外相には駐支大使の「有田八郎」が就任することになりました。
駐支大使を『外相』に抜擢するあたり、広田が「対支外交」に気を遣っていた事が
よく分かります。本当は、外務次官だった重光葵を外相に繰り上げる手もあったの
ですが、重光は「反英・対支強硬路線」の気が多分にありましたから、広田が心配
したのでしょう。しかし、重光は広田と同じコースとなる「駐ソ大使」に出される
訳なので、広田は重光を買っていたのも事実です。一番きついポストですからね。
ちなみに重光は、のちに「駐英大使」にもなっています(1938年)。

また広田は有田を抜擢した理由として、●「そのころ駐支大使だった有田を外相に
抜擢したのは私であって、陸軍ではない。有田は職業外交官であり、日本が(満州
問題で)国際連盟から脱退したときに、有田は外務次官として連盟脱退に同調しな
かった。私は有田と同じ考えであった。このため私は、有田を信頼していたのである」

と述べています。まあ、陸軍に吉田の外相を阻止された広田の、せめてもの抵抗だった
と言えるかもしれません。しかし別宮翁などは、●「広田は無能な人間を偏愛する」と
バッサリですw。

762:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 00:12:45 WM0C/9d2
>>760 >>高級官僚が政治団体の会合にのこのこ顔出しちゃ不味いだろう。
>>この辺の広田の脇の甘さというか無神経さはなんなんだろうね・・・?

『脇の甘さと無神経さ』で近衛文麿に勝る者なし!w と言って済ませたいところ
ですが、広田の場合、まさか自分が直後に外相やのちに首相になるとは思っても
いなかったでしょう。1933年の時点で、広田は55歳。少し前まで、オランダ
公使が外交官としての『上がり』のポストだと考えられていました。にも関わらず、
ソ連大使まで務めることができたのです。外務次官も経験していないのに「お呼び」が
掛かるとは思っていなかったのだと思います。

どのみち玄洋社にも●『関わりが深い』のに、今さら「大亜細亜協会」や「国維会」を
気にしてどうする?という気もしますw。

さて、有田八郎が「広田内閣」の外相になった訳ですが、その他の外務省高官の
メンバーは以下の通りです。●堀内謙介次官、●桑島主計・東亜局長、●東郷茂徳・
欧亜局長、●岡本季正・亜米利加局長、●松嶋鹿夫・通商局長、●栗山茂・条約局長、
●天羽英二・情報局長です。まだ天羽が情報局長に留任していますね。さらに吉田茂が
『広田の心遣い』(吉田自身の表現)で、駐英大使としてロンドンに出向いたのは言う
までもないことです―。

763:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 00:30:47 WM0C/9d2
>>723 >>広田が首相を務めた期間は「10ヵ月半」ですが、東京裁判で広田が
>>文官でありながら「死刑」になる布石

広田の首相としての在任期間は1年弱で「功績が少ない」と批判する向きも多い
ですが、大きな間違いです。前スレとも重複しますのでザッと流していきますが、
まず「2・26事件」の決起部隊将校らの軍法会議がありました。1936年4月
28日に始まった軍法会議は7月5日に判決、同月12日には磯部浅一ら15人の
『死刑』が執行されます。ちなみに同年7月に拘留された真崎甚三郎は、翌37年
9月の判決で無罪になりました。何にせよ、軍人としては両腕両足を?がれた形です。

また『粛軍』の名目で広田は1936年4月に「軍部大臣現役武官制」を認めています。
この背景は前スレで詳しくやりましたので省きますが、広田自身、自らの組閣で必死の
思いをさせられましたので、単なる名目上「予備役・後備役」の陸相の選択肢があったと
しても意味が無いと考えたのでしょう。また『玄洋社』『大亜細亜協会』『国維会』などの
関係から、広田は「政党政治」に対して愛着を感じていなかったと批判する意見もあります。

764:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 00:46:10 WM0C/9d2
また広田お得意の●『名を捨てて実を取る』戦略で、軍部大臣の現役武官制を
認める代わりに、首相候補者が陸海軍の大・中将のなかから自由に軍部大臣を
選べるように取引し、当時の陸相・寺内寿一と海相・永野修身に「完全に同意
させた」と云いますが、真相は不明です―。この●『交換条件』があったと
主張するのは、実は広田自身に過ぎないからです。

しかし東京裁判での取り調べで広田は、●「天皇陛下から組閣の大命を拝した者は
誰からも介入されずに、陸海軍の中将と大将から自由に大臣を選べるようにせねば
ならない。他の閣僚を選べるのと、同じようにである―」と寺内と永野の2人に
説いた(そして認めさせた)と陳述しています。

広田が検察の取り調べに対して非常に協力的だった(それが死刑を招く結果となる)
ことを考えると、全く嘘を付いているとは思えず、当時ほぼこれに近いやり取りは
あったと思われます。ただ惜しむらくは、広田が首相を辞めると直ぐにウヤムヤに
なってしまった事ですw。

765:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 01:06:49 WM0C/9d2
また広田弘毅は1936年4月17日、「支那駐屯軍」の増強を決定しています。
それまで『歩兵10個中隊規模』だったのを一気に3倍の兵力に増やしまして、
『混成1個旅団(5774人)規模』となります。また、これに合わせて支那
駐屯軍司令官は『親補職』(天皇の親任式をもって補任される)とされました。

この背景には、満州から北支へと手を突っ込みたがる『関東軍』に歯止めを
かける狙いがありました。要するに、それまでの支那駐屯軍は「格下扱い」で
同じ陸軍といえども関東軍に舐められていた訳です。支那駐屯軍の規模と地位を
向上させる事で、収拾がつかなくなるのを防ごうとした訳です。また陸軍中央も
関東軍を「対ソ戦」に専念させたかった背景もありまして、首相の広田と利害が
一致したのです。

しかし支那駐屯軍が一気に3倍に増えたのは、支那の土人共をいたく刺激し、
1937年7月の「盧溝橋事件」が勃発する遠因ともなりました―。

766:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 01:33:42 WM0C/9d2
また広田内閣では、日本の外交方針が大きく●『国防』●『外交』●『国策』の
3つの面から見直されておりまして、それぞれ

●「帝国国防方針の改定」●「帝国外交方針」●「国策の基準」の形となります。

このうち「帝国国防方針の改定」は日露戦争以来、3度目の改定となり、仮想敵国が
従来のアメリカとソ連・支那に、イギリスが加えられたのが大きな変更でした。また
長期戦に備える必要性を説きつつも、「作戦初動の威力を強大ならしめる」ことにより
短期決戦の『速戦即決』を主張したのも特徴でした。実は、支那事変と太平洋戦争は
この新たに改定された「帝国国防方針」に基づいて起こった訳です。

しかし「帝国国防方針」の改定作業は、それこそ「統帥権の独立」に関するもので
首相の広田もほとんど口を挟むことが出来ず、陸海軍の決定をそのまま鵜呑みに
せざるを得ませんでした。これが1936年6月3日に天皇陛下から裁可される
ことになります―。

767:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 01:56:08 WM0C/9d2
また1936年8月7日に、首相の広田弘毅、外相の有田八郎、陸相の寺内寿一、
海相の永野修身の「四相会議」で定められた「帝国外交方針」は、陸軍の意向を
中心に反映しており、『ソ連の脅威の解消』と『赤化防止』を重視していました。

また同じ日の8月7日に、蔵相の馬場鍈一を加えて「五相会議」で決定された
「国策の基準」は、今度は海軍の主張が盛り込まれており、『東亜大陸における
帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出発展する』と南北併進論を謳う
メチャクチャなものでした。

要するに、ソ連の脅威を排除しながら、日満支提携のもとで、南洋にも進出する、
という、明らかに日本の国力を度外視した無謀な内容です。首相の広田弘毅は、
この時の背景を「巣鴨プリズン」で同じA級戦犯であり、外務省で部下だった
東郷茂徳に対して以下のように語っています。

「海軍が(第2次ロンドン)海軍軍縮条約の廃棄後の『軍備拡張計画』を正当化
 するための下地作りと、これに陸軍が『負けてはならじ』と便乗したものが
 合体したものである。単に『予算を取る』ため軍部において拵えたもので、
 それ以上の実質的な意義は考えていなかった―」

768:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/10 02:24:26 WM0C/9d2
少し補足が必要ですが、広田が首相を務めていた1936年には、日本が既に
第2次ロンドン海軍軍縮会議を脱退する事が決定しており、翌年の1937年
からは『無条約時代』に突入する危機的というか、実に不安定な時代でした。

広田内閣が批判される1つの理由に、馬場蔵相のもと「軍事予算を急増させた」
というものがありますが(結局、寺内の『腹切り問答』で予算は通ることなく、
総辞職へ)、これが戦艦「大和」や「武蔵」の建造にも繋がっていく訳です
(話が飛びますが、広田の内閣総辞職に海相の永野が反対したのは、折角の
海軍予算が頓挫してしまうためですね)。

陸軍も、海軍の「軍縮条約の脱退」をネタに巨額の予算を獲得するのを黙って
指を咥えて見ている訳にはいきません(予算額はそのまま権力の額)。結局、
広田は陸海軍の双方の面目が立つように『調整』を図った訳ですが、これらは
陸海軍と政府の『共同謀議』を立証するための格好の材料に使われる事になります。

まあ、こんな広田の首相の時代にまで遡ってやるのは、近衛文麿が自殺したため
なんですがね。誰かがババを引かされる訳です。

769:名無し三等兵
08/12/10 03:31:53 276XHMZZ
>>765
 満洲国の存在が癌となり、広田にとって国民党政府の神経を
逆撫でしてまで陸軍と妥協するような本末転倒なやり方以外に
選択肢が無かったのはよく分かりました。

 ただ、支那駐屯軍の増強については、現地における正規軍の直接的
な武力の強化という意味で、それまでの妥協とは一線を画すように
思えます。
 盧溝橋事件が起こることを視野に入れての結果論かもしれませんが、
この手の嗅覚が鋭い外交官出身の広田自身、こうした行為によって、
現地で軍が揉め事を起こす確率が高くなる―それだけ事態の収拾が
難しくなり、軍につけいる隙を与える、とは考えなかったのでしょうか。
 
 確かに、これだけ政軍関係が乱れると何が起こっても不思議では
ないのでしょうが、このタイミングでの出先の軍の増強について
は、いくら交渉の産物とはいえ、他に利害の一致を見るような材料
は無かったのかとも思います。
 要領を得ない質問ですみません。

770:名無し三等兵
08/12/10 12:22:42
内憂外患で内憂を優先した結果でしょう。

771:名無し三等兵
08/12/11 00:45:33
本読んでると海軍には、鉄砲屋とか水雷屋とか出身兵科が政治力に影響を与える描写が良く出てくるけど、陸軍はどうだったの

772:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/11 01:27:13 a89l0bT3
>>769 >>ただ、支那駐屯軍の増強については、現地における正規軍の直接的な
>>武力の強化という意味で、それまでの妥協とは一線を画すように思えます。

『関東軍の南下』を食いとめるためですから、当時の判断としては止むを得ない
と思われます。そもそも「良識的・支那通軍人」の代表格である多田駿(少将)が
新任の支那駐屯軍司令官として1935年9月に赴任した際、自身の責任担当
地域内における『関東軍の干渉』に憤りを表明したのがきっかけでした。

陸軍省も多田を支持して、1935年11月に北支での『地方的事件』の取扱いに
ついては支那駐屯軍の担当として、関東軍から手を引かせた訳です。これを受けて
同年12月に「参謀本部第二部支那課長」の喜多誠一大佐が、支那駐屯軍の独立性を
高めるために大幅な兵力の増強と再編を提案し、認められました。

これにより『北支の問題処理』は正式に支那駐屯軍の担当となり、関東軍の守備範囲は
万里の長城以北に限定されたのです―。

773:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/11 01:57:32 a89l0bT3
>>769 >>現地で軍が揉め事を起こす確率が高くなる―それだけ事態の収拾が難しくなり

これにより支那駐屯軍は、戦時定員5774人の旅団規模にまで拡大し(約3倍)、
新たに編成した「独立歩兵2個連隊」により火力がさらに強化された訳です。この
2個連隊は「3単位制」で編成され、重機関銃中隊、歩兵砲部隊を加え、通信部隊も
強化し、独立して作戦行動が取れるまでになりました。

しかし、ここで大きな問題が発生します。兵力が3倍になったのですが『兵員の宿舎』が
全然足りませんw。北京の外国人居留地は、既に日本の歩兵2個中隊と他の外国駐屯軍が
使用しており、定員オーバーです。やむなく兵力を過度に「分散配置」せざるを得なくなり
まして、歩兵第1連隊第3大隊は北京南西郊外にある『豊台』に駐屯することなります。

言うまでもなく歩兵第1連隊第3大隊は、『盧溝橋事件』で支那第29軍と衝突した部隊
です。豊台は数年前までイギリスの部隊が駐屯していましたが、「第3大隊」を1ヵ所に
収容するには狭すぎました。結局、3つの場所で別々に小さな宿舎を作らざるを得なくなり、
連隊本部が全体を指揮するのに不利になったばかりか、支那の土人部隊・第29軍の兵舎が
日本軍の兵舎の間に入り組むという「複雑な様相」を呈しました。当然、双方が衝突する
危険性が高くなります。実際、1936年9月には両軍の間で乱闘騒ぎが起きています。

774:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/11 02:11:00 a89l0bT3
もちろん支那駐屯軍が大幅に増強されたことにより、北京の土人共は大反発して
『反日感情』に拍車を掛けました。まあ、関東軍のやりたい放題を止めるために
支那駐屯軍を増強させたのですが、実際やってみると思わぬ問題が発生した好例
になります。さすがに昭和天皇は「良いカン」をしておりまして、陸軍から支那
駐屯軍の大幅強化を聞かされると、これを承認しつつ「あまり目立たないように
やれ」と注意しています。

まあ、もともと首相の広田は『軍の統帥権事項』に口出しできませんし、よかれと
思って賛同したのですが、関東軍は「北支」が駄目となったら今度は「内蒙古」に
触手を伸ばしますし、なかなか上手くはいかないものですw。

775:三途の水先案内人 小野塚小町 ◆FU/OcfTlfM
08/12/11 02:15:19

   ッ-ヘ。__。ヘ
   レ, '´゚   `,〉.
   i ハ)))ハ))ノ)    ( :::)
    イオi ゚ ヮ゚ノヘ__( ::)     今うどん食べてるんですよ
    ,ぐつ==\_/       映姫様もどうですかい?
   ,メノ イ-i| ̄ ̄ ̄ ̄| 
    ゙'ーソフ-Ⅱフ ̄ ̄ Ⅱ

776:イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM
08/12/11 02:16:43
また新スレで会いましょう。

777:名無し三等兵
08/12/17 19:49:54
あと12kb残ってるー

778:769
08/12/18 01:16:24 W4sDsEf3
スミマセン、御礼言わせて下さい。

 丁寧な御回答感謝します。御話が実務レベルで見えて、来て目から
ウロコです。>>770さんの見通しに沿ってますね。

 元々提案したのが軍側であったので、広田にとっては統帥権が
足枷になったこともあって細かい注文を付けられなかったわけですか。
おしゃるように「毒を以って毒を制す」つもりが、藪蛇になった
ような印象を受けます。

 成程、盧溝橋事件も、関東軍と北支派遣軍の縄張り争いによる
混乱と、居留地という手狭な状態が引き起こした側面があったわけ
ですね。



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