08/09/29 00:04:15 WjkK6k4U
>>119CGA(支那派遣軍総司令部)の優柔不断・不決断によるもので、
1945年4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸した以上、そこから南西に後退するような
位置関係にある台湾や南支を襲ってくる可能性は減った訳です(世界地図を参照)。
その後の米軍は沖縄から真っ直ぐに日本本土を衝くか、もし支那戦線に米軍との
決戦場が「仮に」あるとすれば、上海・南京の揚子江流域でしたでしょう。文字通り
CGAが死守すべき最後の本丸です。
結局、第40師団他の第23軍(広東)からの再転用がなったのが沖縄戦の大勢が
見えた後になりますから、いかにも後手後手に回っていました。蕋江(しこう)作戦も
米軍が沖縄に上陸した半月後の4月15日から従来予定どおり行なわれています。
さて部隊が北上を始めますと、自分には異動に続いてもう1つ、青天の霹靂が訪れました。
それが「陸大の受験」です。伝令がやって来まして、●「**は広東に残留し、陸大初審を
受験したのち?州(かんしゅう)において追及すべし。依命師団長」の意でした。最初は
「まだ陸大があったのか!」と単純に驚いた覚えがあります。