08/12/05 19:20:25
同様に、この高められた状態で灰皿に目をやったところ、煙突の歴史、銅の歴史、鉱山技
術や精錬技術の歴史などの「思念とイメージの旋風」に気付くようになったとも書いている。
自分の瞥見したものを後で思い出せるようにといくばくか言葉を書きなぐっておいたが、
翌日読んでみるとそこに書かれていたのは「灰皿一つで発狂しかねない」という言葉だっ
た。
ウスペンスキーの言葉を言い換えれば、我々の身の回りにある事物(家、煉瓦、灰皿など)には
果てしなく深い意味が込められており、ある特定の状態にある意識には現実にそれを感知
できる、という事なのだ。オルダス・ハクスレー「知覚のた扉」にも同様に、メスリカンの影響下ではあ
らゆる事物に意味が脈打つのが見え、苦痛なほどだという記述がある。ハックスレーもまた、実
は我々の五感は意味の大半を濾過しているのであり、層でもしなければ日々の実践的な生
活が不可能になってしまうからではないかと述べている。我々は目隠しされた馬同然なの
だ。われわれの5感は、事象を取り込むだけではなく、閉め出すようにも設計されている
のではないか、とハックスレーは言うのである。
デヴィッド・モアハウスが数年前に撃墜された大韓航空機を見たり、ヤーンの被験者が、友人が時間
後に見るはずの情景を予知できたりといった遠隔透視のパラドックスはおそらくこれでなにが
しか説明できるのではないだろうか。もし現実に我々を取り囲む世界には無限の意味が満
ち溢れているというのに、溶接工が遮光マスクをかけるように故意に自らの目を防いでい
るのだとすれば、既になくなってしまったと思い込んでいるあらゆる意味を呼び出せるか
もしれないのだ。骨董品の絨毯を鑑定する年季の入った古物商には、我々門外漢には見え
ない歴史が読み取れるものだ。