08/09/08 12:51:44 G8z4wTXL
「連隊長がケンブリッジ大学出の人だったので、捕虜虐待はしちゃ駄目だ、
ってときどき上官から叱られたから、俺は古参兵だったから、あいつらには、
仕事がぎっちり与えた。あるとき、捕虜は『班長、班長、空襲のとき走るの遅いよ。』
って文句言うから、だから、俺は『鉄砲、拳銃、手榴弾持ってるから重いんだ。』
って言ったら、あいつら『代わりに俺たちが持ってやる。』、って言うから、
『そうか、じゃおまえらが持て』ってあいつらに持たせておいた。あいつら、いつも
俺の傍について離れず、なついていた。しまいに俺は脚気になってからは、いつも
拳銃も手りゅう弾も重いから持たせていた。」って、死んだ親父が言ってた。
酒を飲むといつもその話をした。その話の最後に「日本が負けて、戦争犯罪法廷が
開かれるという話を聞いたとき、『しまった、コキ使うんじゃなかった。捕虜虐待に
なるかも』って思ったけど、いざ戦犯容疑者選びが始まったときは俺の部隊からは
一人も戦犯容疑者は出なかった。連隊長は黒塗りの高級車の迎えがきて英軍の偉い
将校と一緒に捕虜収容所から出ていった。その後、場所が移されてからは米軍が来て、
その戦犯容疑者選びのやりかたは酷かった。どっかの関係ない村の住民を集めてきて
道端の両側に並べて、首実験するんだ。いいかげんな住民に指をさされたら終わりだ。
その首実検の道路の端では黒ン坊の兵隊が立ってて親指たてて日本兵の捕虜を右と左に
分けていた。左がセーフで右だと終わり、だった。」って言ってたな。