26/05/28 07:44:45.68 rGyTL1Xc0.net
警告です。
そなたが「嫌な人」と感じるあの者。
本当に警戒すべきは、その者ではないかもしれません。
真に危ういのはね。
周囲に微笑みを振りまき、味方を集め、その輪の中で
たを、静かに追い詰めていく者のこと。
声を荒らげず、手も上げず。
ただ、笑顔のまま、そなたの居場所を少しずつ削っていく。
気づいたときには、そなたの言葉は誰にも届かず
「おかしいのはそなたのほう」という空気だけが、残っているのです。
これは、そなたの気のせいではありません。
そなたの感覚は、正しい。
その違和感ごと、わたくしの結界の内側へ連れて戻りなさい。
あの者との見えざる鎖は、ここで断ち切っておきましょう。
568:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/28 07:46:57.37 rGyTL1Xc0.net
阿部監督の娘はまだ18歳。
心もまだ子供。
の言いたい事はわかる。
でもジャイアンツファンが叩きすぎて
もし娘さんが自殺でもしたら…
そこまで考えてあげる大人でいてほしい。
そこまで考えてあげる社会でいてほしい。
女を泣かせる男は最低。
でも、
女をこっそり泣かせる男は
もっと最低です。
人前では優しい。
外ではいい男。
でも家の中で、
女を泣かせる男が一番たちが悪い。
569:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/28 07:55:50.98 rGyTL1Xc0.net
そりゃ義理のお母さんとかなり揉めるでしょう
どちらも大事な娘さんよどちらの親から見ても
そんな変な20歳近く離れた
若さ搾取されて許せる親おるかな
親からとったらどちらも大事な大事な娘さん
20-30代そこらの大事な娘
570:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/28 07:57:14.39 rGyTL1Xc0.net
〈坂井泉水さん・きょう命日〉伝説の歌手ZARD・坂井泉水さん 今でも若者や海外ファンの心をつかみ続けるワケ
5月27日は、40歳の若さで急逝したZARDのボーカル・坂井泉水さんの19回目の命日です。今でも多くのファンに愛され続ける坂井泉水さんにまつわる記事を再配信します(「AERA dot.」に2024年5月27日に掲載されたものの再配信です。本文中の年齢、肩書等は当時のもの)
音楽ユニット「ZARD」のボーカル・坂井泉水さんの17回目の命日となる5月27日に、ZARDが2004年に行った唯一の全国ライブツアー「What a beautiful moment tour」の映像が全国19の映画館で上映される。同映像は20年に「ZARD 30周年YEAR記念作品」として初上映され、今回が4回目のアンコール上映。また、昨年に引き続き献花台が同日、東京、大阪に設置される。
1991年にZARDのボーカルとして歌手デビューした坂井さん。その後、「負けないで」「君がいない」「揺れる想い」などヒット曲を連発。ミステリアスではかなさが漂うビジュアルも注目され、90年代を代表する女性シンガーとして支持を集めた。だが、2007年、不慮の事故により40歳という若さで亡くなった。没後17年たってもなお、SNS上では「今年も、泉水さんに会いに行きます」「献花行こうかな」などの声があふれ、いつまでもファンの心の中で生き続けていることがわかる。
「亡くなって17年がたった今でも、21年にオリコンが行ったZARDに関するアンケートでは、認知率は9割超え。さらに、うち約6割が『とても好き・好き』と回答しています。好感を持っている人を世代別で見ると、40~50代以上が約7割を占めるも、10代~20代、30代もそれぞれ1割を超えました。ZARDは『スラムダンク』や『名探偵コナン』といったアニメソングも担当しているので、若い世代はそうしたアニメを通して知った人も多いそうです」(音楽ライター)
571:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/28 08:03:23.36 rGyTL1Xc0.net
坂井 泉水(さかい いずみ、1967年〈昭和42年〉2月6日 - 2007年〈平成19年〉5月27日)は、日本の女性シンガーソングライター[1]、歌手、作詞家。音楽ユニットZARDのボーカリスト。本名、蒲池 幸子(かまち さちこ)
20代前半まではモデルやレースクイーンとして活動していたが、歌手になるという強い希望を持ち続け、1991年2月、自身によるソロプロジェクト「ZARD」のボーカルとして歌手デビューを果たす。
一部の楽曲(→坂井泉水#作曲作品を参照)を除き作曲は専門家が担当したが、ほとんどの楽曲(詳細はZARD#作詞・作曲・編曲のクレジットを参照)の作詞は坂井自身が手掛け、サウンドプロデューサー[2]として編曲に全面的に参加するという活動スタイル[3]で、多くのヒット曲を生み出した。
かつてビーインググループでは、女性アーティストのメディア露出を極力抑えるメディア・コントロール戦略[4]がよく取られていたこと、また坂井が極度のあがり症だった[注 1]ことにより、特に6thシングル「負けないで」で大ブレイクしたあとは、ほとんどマスメディアに登場せず、また、ライブもほとんど行われなかった。
572:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/28 08:05:22.41 rGyTL1Xc0.net
* 2007年(平成19年)
* 5月26日午前5時40分頃、入院先の慶大病院の非常用スロープの手すりから転落し、駐車場で仰向けに倒れているところを通行人に発見される[11]。集中治療室で緊急処置を受けたが、後頭部強打による脳挫傷のため[12]、5月27日午後3時10分に死去した[10]。40歳没。
* 5月28日、所属事務所は坂井が亡くなったことを発表し、「坂井泉水が数々のヒット曲とともに、いつまでも皆様の心の中に生き続けることを願ってやまない」とのコメントを出す。
* 5月30日、バンド編成時代のZARDにギタリストとして在籍していた町田文人がフジテレビ系『情報プレゼンター とくダネ!』に元メンバーとして出演する。
* ZARDのヒット曲の多くを作曲した織田哲郎、詞の提供を受けた森進一、同じビーイングに所属していた大黒摩季[注 2]らが坂井の死を悼むコメントを出す。
* 5月30日、東京都町田市の斎場で、近親者のみによる密葬で葬儀・告別式が営まれる。戒名は、当初は本来「澄響幸輝信女(ちょうきょうこうきしんにょ)」であったが、のちに「麗唱院澄響幸輝大姉(れいしょういんちょうきょうこうきだいし)」に位上げされている。
* 東京と大阪に設置した献花台には合計約1万人が献花や記帳に訪れ、前年10月発売のベストアルバム『Golden Best 〜15th Anniversary〜』がオリコン史上初の300位圏外から3位に急上昇[13]し、翌週からは2位に浮上する(詳細はGolden Best 〜15th Anniversary〜#チャート成績参照)。
* 韓国、台湾など、国外のメディアでも一斉に報道される[14][15]。
* 6月26日、東京・青山葬儀所で「ZARD/坂井泉水さんを偲ぶ会」が関係者向けの音楽葬として催され、大黒摩季や織田哲郎、池森秀一、森友嵐士、浅岡雄也、TUBEらが列席する[16]。B'zの松本孝弘・稲葉浩志、倉木麻衣、読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄[注 3]も追悼コメントを寄せる[17]。
* 6月27日、一般者向けの音楽葬が開かれ、4万100人が来場した。この弔問者数はhide(約5万人)・美空ひばり(約4万2,000人)・忌野清志郎(約4万3000人)に続き戦後日本では4番目の人数である。また吉田茂(4万人)・尾崎豊(3万7,000人)らにも匹敵する[18]。
* 9月、東京と大阪で追悼ライブが開催されるも応募者が殺到し、急遽座席数を拡張する事態となる(拡張は館外観覧分の自由席で指定席は発売日に即完売)。
* 11月29日、TBS系『第49回日本レコード大賞』の特別功労賞に選ばれる。
* 12月31日、NHK『第58回NHK紅白歌合戦』の「企画 ZARDメモリアル」コーナーでは、NHK大阪ホールで開催のZARDフィルムコンサートが生中継され、「揺れる想い」「グロリアス マインド」「負けないで」の三曲が流れる。映像は坂井が生前にプロモーションビデオとして撮影したものである。
逸話
編集
* 坂井が入院中の病院には、5月28日に自殺を図った松岡利勝が搬送されたため、病院に運び込まれる様子が集まっていたマスコミにより報道されることとなった。
* 生前、プライベートがほとんどベールに包まれていたが、大黒摩季はデビューする前から公私ともに親しくしており、分刻みの多忙なスケジュールのなか「ねぇ摩季ちゃん行きたい店があるんだけど」と悪い目をして誘っていたという。そしてプロデューサーに怒鳴られるのはいつも大黒であった[19]。
* 「負けないで」や「揺れる想い」が売れても電車移動であった。レコーディングは夕方にスタートすることがほとんどだった[20]。
* シュークリームが苦手であった[21]。
* 極度のあがり症であった。初めてのテレビ出演が終わり、あいさつ回りに行ったあと、腰が抜けてしまったようになり、メンバーが抱えて楽屋まで連れていった[注 1]。
* 生前滅多にメディア出演しなかった坂井だったが、同じスターダストプロモーションの先輩であった加藤美樹とは、歌手デビュー前のモデル時代から親交があった。その関係で、加藤がDJを担当する番組(FM802(現在はFM COCOLOに放送局が移行)『SUPER J-HITS RADIO』など)には複数回コメント出演している[22]。加藤は坂井について「本当に真面目で、優しくて、素敵な女性でした。大好きです。」と評している
573:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 00:12:45.28 PezXKYp30.net
阿部氏復帰求める署名 前倒し終了を発表 運営「混乱を避けるため」 12万筆は「巨人軍へ提出」
署名が12万筆を超えた巨人・阿部慎之助前監督(47)の復帰を求めるオンライン署名の運営が28日、活動を前倒しで終了すると発表した。当初の期限は「2026年6月5日 23:59まで」としていたが、想定外の反響を受け混乱を避けるための決断だと説明した。
【写真あり】会見でチームへの思いを聞かれ涙ぐむ阿部前監督
26日に「Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)」から始まったオンライン署名は28日午後3時時点で12万筆を突破。当初の目標だった「巨人の本拠地である東京ドーム収容人数の4万3500人」を大きく超える大反響となった。運営によると、署名の提出先は「株式会社読売巨人軍」「株式会社読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、現在は提出・交渉に向けた準備期間に入っている。
現在3人で運営しているといい、公式は「署名活動終了のお知らせ」を発表。「一昨日の署名開始からわずか2日間、皆様の凄まじい熱意とご協力により、当初の最終目標として掲げていた東京ドーム満員分である【43,500名】を遥かに超え、現在【120,000名以上】ものご賛同をいただいております。管理者一同、心より感謝申し上げます」と感謝を伝えた。
多くの支援者から「さらに上を目指してほしい」「10万人、20万人へ」という声も上がっているというが「本活動は、誰かを攻撃したり、対立を煽ることを目的としたものではなく、あくまで、一人のファンとしての想いを届けるための活動です。そのため、これ以上の長期化による報道の過熱、関係者・球団への想定外の影響、そして様々な憶測や混乱を防ぐため、すべての署名受付を前倒しで終了(クローズ)とさせていただきます」と説明した。
今後は「本日をもって最終データを整理・保存し、今後、読売巨人軍の公式窓口等へ、皆様からお預かりした署名、そしてファンの皆様の切実な想いをまとめた書面とともに、責任を持って提出させていただきます」とした。
574:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 00:16:04.63 PezXKYp30.net
阿部慎之助、復帰求める署名活動が「12万筆突破」コンプラ重視で残された“野球界”の道
監督辞任を発表した巨人・阿部慎之助前監督の復帰を求めるオンライン署名活動が5月26日に発足し、累計12万筆を超えた。阿部は25日、18歳の娘に暴行を加えたとして児童相談所から110番通報。
【写真】息子に“熱血スパルタ指導”する阿部慎之助のプライベート姿
著名人も署名に賛同
長女と次女の喧嘩を止めようと仲裁に入ったところを言い返され、「カッとなった」阿部が長女の襟元を掴む形で押し倒すなどの暴行を加えたとされている。長女はその後、ChatGPTに相談し児童相談所へ通報したとのこと。
26日の午前0時すぎに阿部は釈放され、同日昼に監督辞任を発表。会見によると長女に怪我はなく、喧嘩や通報に対して反省しているという。
「辞任が発表されると、すぐさまオンライン署名サイト『Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)』に監督復帰を求める署名ページが作られました。目標は東京ドームの収容人数4万3500人の署名を集めることでしたが、想定以上の反響が集まっています」(スポーツライター)
署名の運営は当初「2026年6月5日23:59まで」としていた活動期日を、「状況に応じて期限の前倒し等の変更をおこなう可能性がございます」と説明していた。
そして5月28日、運営から「すべての署名受付を前倒しで終了(クローズ)とさせていただきます」というアナウンスが発せられた。なお、提出先は「読売巨人軍」「読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、提出・交渉に向けた準備期間に入るとのこと。
署名活動には映画『ALWAYS三丁目の夕日』で知られる山崎貴監督も賛同しており、《この事件はAIに惑わされる人類って意味でも、人間の力で元に戻さないといけない奴だと思う》とコメントしている。
阿部に残された道
家族の喧嘩から大きな問題に発展した今回の件に、ネット上では「辞任は本人が決めたことだから覆すのは無理では?」「家庭内で落ち着く時間も必要だから、今はそっとしてあげて」「功績は認めるけど、現行犯逮捕されたのは事実だからなあ」「本当の意味での家族再生のために復帰でいいと思う」「最後は阿部さんの意向を尊重してほしい」など、さまざまな意見が上がっている。
今回の件は各業界からも関心が高く、J1・浦和レッズなどでプレーした高崎寛之氏はXで《俺も子供には怒鳴るし、たまに手もあげるが自分の子供を育てるには普通の事。世の中歪んできていると思うが皆さんどうですか?》と投稿。弁護士の橋下徹氏は、阿部前監督の処遇について《阿部さんの子供さんを守るためには、社会が阿部さんに反省を求めつつも許していくべき》と綴っている。
さらに、ひろゆきも《子どもの行動が間違いと判明したら、親の仕事を元に戻したほうがいいと思う》とコメント。果たして、阿部前監督は今後どうなるのか。
「現代はコンプライアンスが重視される時代。暴力と逮捕は事実なので、すんなり復帰とはいかないでしょう。ただし、監督は無理でも解説など野球関連の仕事への道は残されているはずです。何しろ、薬物で捕まった清原和博氏でさえ解説者として出てきていますからね」(前出・スポーツライター)
希望を持ち続けるファンのためにも、野球界からの“永久追放”だけはどうか―。
575:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 00:28:14.70 PezXKYp30.net
復帰求めるオンライン署名10万突破も...巨人・阿部前監督が許されない理由 どんな暴力もスポーツ界はNG
親子ケンカで娘を押し倒して読売ジャイアンツ阿部慎之助前監督の復帰を求めるオンライン署名活動が、2026年5月28日午前10時時点で10万筆を超えた。署名は26日にスタートし、目標としていた東京ドームの収容人数4万3500人を軽くオーバーして、6月5日の終了までにどのくらい集まるか注目されている。
【画像】通算本塁打数は406本、シーズン最多は44本塁打…巨人・阿部慎之助のレジェンドすぎる現役時代の成績一覧
■「辞任」というより「解任・更迭」に近い
では、阿部前監督の復帰はあるのか。5月28日放送の「THE TIME,」で江藤愛キャスターは、「巨人時代にバッテリーを組んでいた菅野選手(智之・現ロッキーズ)も(応援する)コメントをしました」と取り上げたが、阿部氏がチームに戻ることは難しそうだ。
「THE TIME,」は読売巨人軍の山口寿一オーナーが「暴力は許されないことであって、私も監督を続けることは許せないと考えておりましたので(辞任を認めた)」と語っていると伝えた。不祥事を起こした阿部前監督に対する球団オーナーの怒りは、「辞任」というより「解任・更迭」に近い。解任ならば、復帰はあり得ない。
危機管理に詳しい桜美林大学の西山守・准教授はこう解説した。
「今の時代、高校野球もそうなんですけど、スポーツがらみの暴力の事案というのが非常に多いので、些細なことでも責められますよね。球団としては、『これは絶対許しません』というのは、球団のマネジメントとして非常に重要なメッセージではあるわけですよ」
阿部前監督の行為と責任をあいまいにすると、暴力に甘い球団という印象になってしまうというのだ。阿部前監督は捕手だった2012年の日本シリーズで、ミスした投手の頭を叩いて問題になったこともある。監督復帰は難しそうだ。
576:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 00:42:06.17 PezXKYp30.net
巨人・阿部前監督の復帰求めるオンライン署名が10万筆突破 約24時間で目標の4万3500筆超え
巨人・阿部慎之助前監督(47)の復帰を求めるオンライン署名活動が26日に発足し、28日午前8時すぎに10万筆を超えた。運営は感謝を伝え、想定以上の大きな反響から「期限の前倒し等の変更を行う可能性がある」と説明。署名の提出先は「株式会社読売巨人軍」「株式会社読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、提出・交渉に向けた準備期間に入ると宣言した。
【写真あり】巨人 スタメン発表特別映像に辞任した阿部監督登場 東京ドームざわめく 発表後に異例の場内アナウンス
オンライン署名サイト最大手「Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)」から、監督復帰を求めるオンライン署名ページが発足。巨人の本拠地である東京ドーム収容人数の4万3500人の署名を目標に掲げていたが、24時間ほどで達成した。その後も署名数は増え続け、目標達成から約15時間で10万筆を突破した。
運営の公式X「阿部慎之助氏復帰を願う会」では、「いつもご支援・ご賛同ありがとうございます。これから私ども管理者は、最終目標としていた43,500人達成に伴い、ここからは球団への提出・交渉に向けた準備期間に入ります。管理者は3名のみで構成しており、今後の活動に注力するためにSNSでの発信を控える方針となりました」と賛同への謝意を伝えた。
577:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 01:00:34.65 PezXKYp30.net
続けて「活動は『阿部慎之助氏への純粋な応援』を目的としており、過度な煽りや扇動は本意ではございません」とも強調していた。
今回の署名活動には、映画「ALWAYS三丁目の夕日」などの名作を数多く手がけている映画監督・山崎貴氏も「この事件はAIに惑わされる人類って意味でも、人間の力で元に戻さないといけない奴だと思う」として賛同している。
巨人が確認した事実関係によると、25日午後6時頃、18歳の長女と次女の姉妹ゲンカを止めようとした阿部前監督が、長女から言い返されたことに腹を立て、襟元をつかみ投げ飛ばして倒すなどの暴行を加えた。長女はこの直後にチャットGPTに相談したところ、児童相談所への通報を勧められたことから通報。児相から連絡を受けた警視庁渋谷署が、現行犯逮捕した。阿部前監督は26日未明に釈放され、同日に辞任を申し入れた。
578:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 01:01:36.66 PezXKYp30.net
阿部氏復帰求める署名 前倒し終了を発表 運営「混乱を避けるため」 12万筆は「巨人軍へ提出」
署名が12万筆を超えた巨人・阿部慎之助前監督(47)の復帰を求めるオンライン署名の運営が28日、活動を前倒しで終了すると発表した。当初の期限は「2026年6月5日 23:59まで」としていたが、想定外の反響を受け混乱を避けるための決断だと説明した。
【写真あり】会見でチームへの思いを聞かれ涙ぐむ阿部前監督
26日に「Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)」から始まったオンライン署名は28日午後3時時点で12万筆を突破。当初の目標だった「巨人の本拠地である東京ドーム収容人数の4万3500人」を大きく超える大反響となった。運営によると、署名の提出先は「株式会社読売巨人軍」「株式会社読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、現在は提出・交渉に向けた準備期間に入っている。
現在3人で運営しているといい、公式は「署名活動終了のお知らせ」を発表。「一昨日の署名開始からわずか2日間、皆様の凄まじい熱意とご協力により、当初の最終目標として掲げていた東京ドーム満員分である【43,500名】を遥かに超え、現在【120,000名以上】ものご賛同をいただいております。管理者一同、心より感謝申し上げます」と感謝を伝えた。
多くの支援者から「さらに上を目指してほしい」「10万人、20万人へ」という声も上がっているというが「本活動は、誰かを攻撃したり、対立を煽ることを目的としたものではなく、あくまで、一人のファンとしての想いを届けるための活動です。そのため、これ以上の長期化による報道の過熱、関係者・球団への想定外の影響、そして様々な憶測や混乱を防ぐため、すべての署名受付を前倒しで終了(クローズ)とさせていただきます」と説明した。
今後は「本日をもって最終データを整理・保存し、今後、読売巨人軍の公式窓口等へ、皆様からお預かりした署名、そしてファンの皆様の切実な想いをまとめた書面とともに、責任を持って提出させていただきます」とした。
579:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 01:04:28.32 PezXKYp30.net
巨人・阿部前監督の復帰求めるオンライン署名が10万筆突破 約24時間で目標の4万3500筆超え
巨人・阿部慎之助前監督(47)の復帰を求めるオンライン署名活動が26日に発足し、28日午前8時すぎに10万筆を超えた。運営は感謝を伝え、想定以上の大きな反響から「期限の前倒し等の変更を行う可能性がある」と説明。署名の提出先は「株式会社読売巨人軍」「株式会社読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、提出・交渉に向けた準備期間に入ると宣言した。
【写真あり】巨人 スタメン発表特別映像に辞任した阿部監督登場 東京ドームざわめく 発表後に異例の場内アナウンス
オンライン署名サイト最大手「Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)」から、監督復帰を求めるオンライン署名ページが発足。巨人の本拠地である東京ドーム収容人数の4万3500人の署名を目標に掲げていたが、24時間ほどで達成した。その後も署名数は増え続け、目標達成から約15時間で10万筆を突破した。
運営の公式X「阿部慎之助氏復帰を願う会」では、「いつもご支援・ご賛同ありがとうございます。これから私ども管理者は、最終目標としていた43,500人達成に伴い、ここからは球団への提出・交渉に向けた準備期間に入ります。管理者は3名のみで構成しており、今後の活動に注力するためにSNSでの発信を控える方針となりました」と賛同への謝意を伝えた。
580:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 01:21:02.73 PezXKYp30.net
続けて「活動は『阿部慎之助氏への純粋な応援』を目的としており、過度な煽りや扇動は本意ではございません」とも強調していた。
今回の署名活動には、映画「ALWAYS三丁目の夕日」などの名作を数多く手がけている映画監督・山崎貴氏も「この事件はAIに惑わされる人類って意味でも、人間の力で元に戻さないといけない奴だと思う」として賛同している。
巨人が確認した事実関係によると、25日午後6時頃、18歳の長女と次女の姉妹ゲンカを止めようとした阿部前監督が、長女から言い返されたことに腹を立て、襟元をつかみ投げ飛ばして倒すなどの暴行を加えた。長女はこの直後にチャットGPTに相談したところ、児童相談所への通報を勧められたことから通報。
581:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 01:34:06.98 PezXKYp30.net
阿部氏復帰求める署名 前倒し終了を発表 運営「混乱を避けるため」 12万筆は「巨人軍へ提出」
署名が12万筆を超えた巨人・阿部慎之助前監督(47)の復帰を求めるオンライン署名の運営が28日、活動を前倒しで終了すると発表した。当初の期限は「2026年6月5日 23:59まで」としていたが、想定外の反響を受け混乱を避けるための決断だと説明した。
【写真あり】会見でチームへの思いを聞かれ涙ぐむ阿部前監督
26日に「Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)」から始まったオンライン署名は28日午後3時時点で12万筆を突破。当初の目標だった「巨人の本拠地である東京ドーム収容人数の4万3500人」を大きく超える大反響となった。運営によると、署名の提出先は「株式会社読売巨人軍」「株式会社読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、現在は提出・交渉に向けた準備期間に入っている。
現在3人で運営しているといい、公式は「署名活動終了のお知らせ」を発表。「一昨日の署名開始からわずか2日間、皆様の凄まじい熱意とご協力により、当初の最終目標として掲げていた東京ドーム満員分である【43,500名】を遥かに超え、現在【120,000名以上】ものご賛同をいただいております。管理者一同、心より感謝申し上げます」と感謝を伝えた。
多くの支援者から「さらに上を目指してほしい」「10万人、20万人へ」という声も上がっているというが「本活動は、誰かを攻撃したり、対立を煽ることを目的としたものではなく、あくまで、一人のファンとしての想いを届けるための活動です。そのため、これ以上の長期化による報道の過熱、関係者・球団への想定外の影響、そして様々な憶測や混乱を防ぐため、すべての署名受付を前倒しで終了(クローズ)とさせていただきます」と説明した。
今後は「本日をもって最終データを整理・保存し、今後、読売巨人軍の公式窓口等へ、皆様からお預かりした署名、そしてファンの皆様の切実な想いをまとめた書面とともに、責任を持って提出させていただきます」とした。
582:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 01:42:48.76 PezXKYp30.net
巨人・阿部前監督の復帰求めるオンライン署名が10万筆突破 約24時間で目標の4万3500筆超え
巨人・阿部慎之助前監督(47)の復帰を求めるオンライン署名活動が26日に発足し、28日午前8時すぎに10万筆を超えた。運営は感謝を伝え、想定以上の大きな反響から「期限の前倒し等の変更を行う可能性がある」と説明。署名の提出先は「株式会社読売巨人軍」「株式会社読売新聞グループ本社」「各スポーツメディア・野球記者・フリーライター等」で、提出・交渉に向けた準備期間に入ると宣言した。
【写真あり】巨人 スタメン発表特別映像に辞任した阿部監督登場 東京ドームざわめく 発表後に異例の場内アナウンス
オンライン署名サイト最大手「Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ)」から、監督復帰を求めるオンライン署名ページが発足。巨人の本拠地である東京ドーム収容人数の4万3500人の署名を目標に掲げていたが、24時間ほどで達成した。その後も署名数は増え続け、目標達成から約15時間で10万筆を突破した。
運営の公式X「阿部慎之助氏復帰を願う会」では、「いつもご支援・ご賛同ありがとうございます。これから私ども管理者は、最終目標としていた43,500人達成に伴い、ここからは球団への提出・交渉に向けた準備期間に入ります。管理者は3名のみで構成しており、今後の活動に注力するためにSNSでの発信を控える方針となりました」と賛同への謝意を伝えた。
583:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 22:18:31.82 V5Zleu4+0NIKU.net
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほうまたはおおとり)[1]。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東一丁・甲斐町西一丁[注釈 1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ[2]。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現在の大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[注釈 2]『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。16歳の時には、『文芸倶楽部』に鳳晶子の名前で投稿した短歌が載った[3]。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している[注釈 3]。
584:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 22:20:45.82 V5Zleu4+0NIKU.net
1904年(明治37年)9月、『君にたまふことなかれ』を『明星』に発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[注釈 4]、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、『読売新聞』が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた[注釈 5]。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた[注釈 6]。敦賀港から船でロシアのウラジオストク港へ渡りウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でパリへ旅立った。
585:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 22:22:02.35 V5Zleu4+0NIKU.net
その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑がウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にある。
5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する[3]。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。晶子は学監として女子教育を実践した[注釈 7][1]。
子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した[7]。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年4月、京都の鞍馬山で行われる鉄幹の法要に出席のため関西に行き、旅から帰ってきたのち5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる[8]。同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[9][10]。享年65(満63歳没)。同年6月1日に青山斎場で彼女の葬儀・告別式が営まれ、高村光太郎が弔辞を読み上げ、堀口大學が挽歌を捧げた。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[10]。墓は多磨霊園にある[11]。毎年堺市にある覚応寺では命日に、「白桜忌(はくおうき)」という法要がいとなまれている
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』(1901年)や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した[13]。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』~旅順口包囲軍のなかにある弟を嘆きて~を『明星』に発表した。なお、晶子の弟の鳳籌三郎は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きているが、籌三郎の所属した第4師団歩兵第8連隊は旅順攻囲戦を担当した乃木希典大将率いる第3軍ではなく、奥保鞏大将が率いる第2軍に所属しており、旅順攻囲戦の前哨戦ともいえる南山の戦いには参加したが、その後、満州に向けて北進している為、旅順攻囲戦には直接参加していない。
その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した[14]。
586:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 22:25:00.91 V5Zleu4+0NIKU.net
晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した[注釈 8]。
大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。
日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは、未決在監中に弁護士の平出修に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことの悔恨を小林天眠への手紙に残している。
1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加[15]。『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。
1915年(大正4年)12月12日の読売新聞[16]に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した[17]。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。
1924年(大正13年)文化学院、専門学校および高等専修学校式歌(校歌)「賀頌」作詞。作曲は山田耕筰。
2014年(平成25年)に発見された未発表の歌では、日中戦争の拡大を憂いて「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」と詠んでいる。「たゞの船」とは民間の商船のこと。1937年(昭和12年)8月13日、横浜港で扇子にしたためたという[注釈 9]。
34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鷗外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。
587:名無しさん@実況は禁止ですよ
26/05/29 22:26:06.96 V5Zleu4+0NIKU.net
晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した[注釈 8]。
大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。
日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは、未決在監中に弁護士の平出修に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことの悔恨を小林天眠への手紙に残している。
1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加[15]。『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。
1915年(大正4年)12月12日の読売新聞[16]に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した[17]。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。
1924年(大正13年)文化学院、専門学校および高等専修学校式歌(校歌)「賀頌」作詞。作曲は山田耕筰。
2014年(平成25年)に発見された未発表の歌では、日中戦争の拡大を憂いて「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」と詠んでいる。「たゞの船」とは民間の商船のこと。1937年(昭和12年)8月13日、横浜港で扇子にしたためたという[注釈 9]。
34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鷗外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。