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アメリカ駐在、ハーバード大学留学、駐米大使館付武官などアメリカ絡みの経歴が特徴的で、軍縮会議の全権を務めるなど国際派です。
この検察への証言の後、永野は冬の寒い巣鴨プリズン(拘置所)で窓を破られたままにされ、
裁判途中の昭和22年(1947年)1月2日急性肺炎にかかります。
彼は巣鴨プリズンから両国のアメリカ陸軍野戦病院に移され、3日後に亡くなりました。まるで殺されたようだと言われています。
彼の死後、拘置所の部屋に残された裁判関係資料、手紙、諸記録などは妻に引きとられました。
しかしそれらがぎっしりと詰まった大きなトランクは、妻と娘が高知の自宅へ持ち帰る途中の列車で盗まれてしまうのです。
妻は新聞広告を出し�