22/07/18 02:44:04 bJzdBv4o0.net
以下、以前に私が書いたコメントです。
"ばかり" の解釈についてのねずきちの誤謬を説明しています。
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和泉式部の歌に対する、貴船明神の返歌の解釈を、ねずきちは以下のように訳していますね。
奥山に たぎりておつる 滝つ瀬の
たまちるばかり 物な思ひそ
貴船神社の御神体は、神社の奥にある滝です。
その滝が「たぎり落ちる」ように魂が散る、つまり毎日、多くの人がお亡くなりになっています。
要約すると神様の声は、次のようになります。
貴船神社の奥にある山で、
たぎり落ちている滝の瀬のように、
おまえは魂が散ることばかりを
思っておるのか?
人は、いつかは死ぬものじゃ。
毎日、滝のように多くの人が
様々な事由で亡くなっていることを
お前も存じておろう。
人は生きれば、いずれは死ぬのじゃ。
おまえはまだ生きている。
生きているじゃないか。
生きていればこそ
ものも思えるのじゃ。
なのになぜお前は
魂の散ることばかりを思うのじゃ。
ねずきちは、魂散るばかり、を、魂の散ることばかりを、と訳しています。
和泉式部の時代には、ばかり、という言葉に、限定の用法はありませんでしたから、これは大間違です。