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新・ネットと愛国』(講談社電子雑誌「ネオ現代」連載)より
新たなネトウヨのリーダーが登場し、ヘイト活動が再活性化。その姿に、往年の高田誠を思い出した私は、高田の現状に興味を持った。
都心から1時間弱。埼玉県K市、今や日本人住民より外国人の方が多数派となったその都市の駅で私は電車を降りた。ケバブ屋台や簡体漢字の看板が
並ぶ商店街を通り、徒歩25分。高田が住むというアパートは川沿いの堤防近くに建つ外国人労働者も多数住む古びた木造トタン屋根のアパートだった。
訪問した私を見て「帰ってくれ!」と叫ぶ高田。しかし少しばかりの「謝礼」を持参したことを告げると、態度が変わり、部屋に招き入れられる。
風呂無し築50年六畳一間の高田の部屋には、段ボールなどが乱雑に置かれていた。こたつの上のノートパソコンは手垢が目立つ。
アパートの住人で日本人なのは高田と80代の独居男性だけで、他は外国人労働者だという。薄い窓からは耳になじみの無い言語で歌う子供の声が聞こえる。
10年ぶりに会う高田誠は、白髪が目立つが、意外と血色もよくあまり老けていなかった。若々しい、というより、都知事選で「桜井誠」の時間は止まっている
のではないか、私はそう感じた。しかし、現在の高田は足が若干不自由だという。
杖をついて歩く高田の姿に10年の月日の重さを感じながら、ザンビア人の女将さんが経営する近所の一杯飲屋へ共に歩く。高田の話によると、この店は朝から
営業しているそうだ。私はホッピーを二杯と串揚げ、もつ煮込み、カクテキなどを注文した。ややうつむき加減で話しづらそうにしていた高田だが、アルコールが入り
やや饒舌になる。よほど久しぶりのアルコールだったのか高田は顔を紅潮させ2杯目を飲みだす頃には興奮気味に過去の武勇伝を語りはじめた。
「わたしはかつて日本を変える唯一の男と言われてたんですよ。」「私以上の朝鮮の専門家は日本に存在しないのですよ。日本の大学で朝鮮を研究している所は
ありませんから。」「私は韓国から反韓極右の総帥と恐れられてKBSのインタビューを受けたこともある。」「ポーランドのブダペストで開催された世界右翼大会に
日本代表として招待された。」「私は選挙で10万票を獲得したことがある。」高田の饒舌は10分少々続いたが、言えば言うほど現実との乖離が脳裏によぎるのだろう。