ねずさん(=小名木善行)ってどうよ Part.2at SISOU
ねずさん(=小名木善行)ってどうよ Part.2 - 暇つぶし2ch265:右や左の名無し様
16/02/22 11:00:09.47 WJyq8IUt.net
続き
光秀の発句、
ときはいま あめがしたしる さつきかな
は、五月雨を詠んだものという解釈を前提に織田家の戦勝を祈願したもので、光秀の大望として解釈されるのは後付けのフィクション半分と考えるのが妥当です。
第一義の解釈は、五月雨が我が物顔に降っているという情景描写です。
ここで ”あめ” は雨と天の両方の意味を持っています。五月雨が我が物顔に天下に降り続いていると、”あめ”という言葉を二回別々の意味に受け取って解釈するわけです。
芭蕉の ”五月雨を集めてはやし最上川” や蕪村の “五月雨や大河を前に家二件” は、ある程度の量が強く降る雨のように解釈できますが ”天が下知る” にも、その強さが感じられます。
ねずきち氏は”アヤメ”でも”アジサイ”でも構わないという珍説をお持ちのようですが、とんでもありません。さつきでなければ五月雨を詠み込めないのです。
本能寺の変の後疑われた里村紹巴が、発句は ときはいま あめがしたなる さつきかな であったと主張して難を逃れたという話が常山紀談にあります。
元々の連歌を記述した懐紙が残っていませんのでなんともいえませんし、下に説明するように織田家の戦勝祈願といわれてしまえば知るでも一向に構わないので、常山紀談の話も跡付けのフィクションでしょう。
第二義の解釈として織田家の戦勝を祈るものがあります。羽柴秀吉を援助すべく出陣の準備をしている最中であった光秀が戦勝祈願をするために愛宕山で挙行した奉納連歌ですから戦勝を祈願するのは当然です。
また、これは光秀自身の戦勝ということではなく織田家の勝利を祈願したものと受け取ることができます。
本能寺の変が後に起こった為に、後世この発句を光秀が自分の謀反の成功を祈願したとこじつけられることが多くなりました。
もちろんフィクションとしては陰謀の発句としたほうが面白いことになります。忠臣蔵の宝井其角の宝船の付句などと同じ類のものです。
続きます


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