10/06/28 11:41:48 raTRIKjI.net
どろ臭い、暗い精神主義―ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、
蒙昧主義的な、そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連に
つながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動につながっているんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
435:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 11:43:23 raTRIKjI.net
大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまいだろうと
思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは
出てこないでしょうね。未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。
安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、ぼくは行けないんです。それで世界中が、
すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、まったく同じ精神、
同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、
それはよいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
436:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/30 15:51:57 kTLDcyGU.net
貞女とは、多くのばあひ、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります。
三島由紀夫「反貞女大学」より
トルストイがどんなに天才だらうと、暇がなければ「戦争と平和」なんて読めたものではない。
三島由紀夫「反貞女大学」より
437:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/30 15:53:43 kTLDcyGU.net
女は抽象精神とは無縁の徒である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
438:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 11:23:51 uLdwVAxx.net
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。
三島由紀夫「若さと体力の勝利―原田・ジョフレ戦」より
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者―ペレス・米倉戦観戦記」より
「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと
「若さ」に敗れる日が来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者―ペレス・米倉戦観戦記」より
439:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 12:12:55 YsYKoFqm.net
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。
逆説はその場のがれこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を
追ひつめ、どどのつまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。
逆説家がしばしばいちばん誠実な人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に
触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると
神への捷径(しようけい)だ。
*「捷径」の意味…近道
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
440:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 12:13:32 YsYKoFqm.net
天才(ジエニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができやう。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、
われわれはワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。
ワイルドの哄笑は、言葉の本来の意味での悪魔的な笑ひである。悪魔の発明は神の衛生学だ。
ワイルドの悪魔主義は衛生的なものだ。この笑ひは衛生的なものだ。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
441:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 12:14:04 YsYKoFqm.net
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が
歯医者へゆく御褒美に菓子をせびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。
社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに
飽き、つひには恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。
彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、
おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、醜聞といふ「死」の
一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
442:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 12:14:43 YsYKoFqm.net
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、
しかし運命のみが独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、
磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を
与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。
ワイルドの虚栄心は、受難劇の民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の
虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それがその男にとつての、ももかく
最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の小説に
選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
443:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 12:15:11 YsYKoFqm.net
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。
それは人間の言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は
バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。
彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。
だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、
もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
444:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 14:41:59 fG/yilKe.net
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、
別居し、離婚した。
純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。
三島由紀夫「純粋とは」より
445:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 14:44:22 fG/yilKe.net
真の矜恃はたけだけしくない。それは若笹のやうに小心だ。そんな自信や確信のなさを、
またしてもひとびとは非難するかもしれぬ。しかしいとも高貴なものはいとも強いものから、
すなはちこの世にある限りにおいて小さく、ゆうに美しいものから生れてくる。
三島由紀夫「花ざかりの森」より
446:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 15:34:00 fG/yilKe.net
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。
退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために
与へた最も素朴な観念である。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
447:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 15:34:47 fG/yilKe.net
芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。
それといふのも、人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口を
いふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、
自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、
彼より二三歩離れた林檎の樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の
模倣でもあるのである。―端的に言へば、私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい。)
生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の意味を明かにしてくれるのだ、と。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
448:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 01:17:31 nxdjYAgC.net
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。
男はどんな職業についても、根本に膂力(りよりよく)の自信を持つてゐなくてはならない。
なぜなら世間は知的エリートだけで動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を
証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。
三島由紀夫「小説家の息子」より
449:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 01:27:11 nxdjYAgC.net
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より
450:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 01:29:19 nxdjYAgC.net
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐる
といふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より
451:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 01:41:55 nxdjYAgC.net
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。
少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合はせに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。
三島由紀夫「遠乗会」より
452:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 10:07:00 YKRyFmOz.net
test
453:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 15:43:52 nxdjYAgC.net
少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。
私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり
忘れたやうに、もう二度と来ませんでした。
…それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないのでした。
来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。
三島由紀夫「わが思春期」より
454:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 15:44:15 nxdjYAgC.net
窓の外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見おさめだといふ気がしてゐました。
あんな不思議な感情は、今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐる
この戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて終るだらうし、目の前にあるものは
惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも見おさめ
といふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。
ですから感覚は生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、
ちやうど雨季に入りかけた木々の緑のしたたりも、実に新鮮に目に映るのでした。
三島由紀夫「わが思春期」より
455:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 15:44:52 nxdjYAgC.net
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。
どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、
と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のやうに考へる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
456:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 15:45:09 nxdjYAgC.net
小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へた
ところからはじまるのである。
芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ
向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。
芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
457:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/04 15:45:31 nxdjYAgC.net
大体私は「興ひたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。
いつもさはぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの
小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、
想像してもらつたらよからう。
忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老ひの兆(きざし)だ。
文学では、(日本の芸能の多くがさうであるやうに)、肉体が老ひ朽ちてから、芸術の
青春がはじまるといふ恵みがある。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
458:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:22:41 6UMf/DwV.net
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。
どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。
三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より
男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。
三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より
459:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:23:00 6UMf/DwV.net
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。
三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より
美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。
美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。
三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より
460:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:23:19 6UMf/DwV.net
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。
三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より
人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。
三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より
個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。
私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
461:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:23:36 6UMf/DwV.net
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。
三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より
何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。
三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より
462:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:23:50 6UMf/DwV.net
悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。
肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。
日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。
三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より
463:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:27:15 6UMf/DwV.net
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。
子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の
不潔さよりも、女性の好評を得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、
性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて現はれてゐる。
動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。
男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは
一つもない。
三島由紀夫「第一の性」より
464:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:27:35 6UMf/DwV.net
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。
なぜなら男が、「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が
「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概してその前に美人ではないけれどといふ言葉が
略されてゐると思つてまちがひないからです。
「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとる
といふことと、「愛する」といふこととはちがふ。
相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます
相手から嫌はれる羽目になる。
三島由紀夫「第一の性」より
465:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:27:54 6UMf/DwV.net
愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。
小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。
男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、
どの恋愛読本にも書いてないのはふしぎなことです。
変はり者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からはどう見ても無意味なものに対して、
頑固に忠実にありつづける。
三島由紀夫「第一の性」より
466:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:28:15 6UMf/DwV.net
男には謎に耐へられない弱さがある。
…男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、
現実と人生の謎を、カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、
男は耐へられない。
人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。
スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。
政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにある。
三島由紀夫「第一の性」より
467:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 10:28:42 6UMf/DwV.net
俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色が
ひそんでゐると云つても過言ではない。
宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。
宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、
指導者、組織者としての一面と、三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、
キリストも釈迦も、男でありました。
三島由紀夫「第一の性」より
468:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 11:25:16 6UMf/DwV.net
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的なものの
どちらを欠いても理想的な芸術ではない。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。
私たちは原稿の代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく
感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
469:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 11:26:31 6UMf/DwV.net
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これを
カムフラージュするために、道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に
対する規制が行はれるのが通例である。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
470:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 11:29:00 6UMf/DwV.net
エレキは有害で、青少年に対して危険であり、ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか
人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた考へであつて、
ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、
現代の政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、
ほとんど理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。
してみると日本には、真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府も
そんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
471:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 11:44:32 6UMf/DwV.net
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の
実相は、時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、
病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。
……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに消えてしまふ。
…現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、
周知のとほりである。それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、
人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、
さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の代理の贋物が、
対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、この贋物の
三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、
悩まされることになつたのである。
三島由紀夫「変質した優雅」より
472:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 11:46:19 6UMf/DwV.net
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。
三島由紀夫「変質した優雅」より
性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記―澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より
473:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 11:51:11 6UMf/DwV.net
青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。
三島由紀夫「堀江青年について」より
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典―閉会式」より
474:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 16:52:05 +Onut573.net
●ネトウヨ(ネット右翼)がみっともない12の理由
1.威勢が良いのはネット上だけで現実の行動は何もしない
2.2ちゃんねる発の噂を裏も取らずに事実と断定する
3.愛着を持っている日本文化が伝統文化ではなく漫画・アニメ・ゲーム程度
4.国防重視を説くくせに現実に自衛隊には入らないし入っても役に立たない
5.都合の悪いことはすべて反日勢力の自作自演ということにする
6.特亜・在日・創価・左翼以外の社会悪は平気で見過ごして批判しない
7.戦前戦中・終戦直後の今よりひどい貧困を味わった世代に敬意を表さない
8.自分は何もしてなくても過去の日本人の手柄を自分の手柄のように誇る
9.反中国のくせに高い国産商品より安い中国製品を買うことを恥じない
10.何の話題でも嫌特亜、反左翼に結びつけないと気が済まない
11.たまたま日本人に生まれただけで努力して何かになったわけではない
12.この文章を読んで「これを書いた奴はチョン」と証拠もなく勝手に断定
475:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/06 11:31:38 K12k8XDK.net
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」―これは一管の
笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。
三島由紀夫「永遠の旅人―川端康成氏の人と作品」より
476:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/07 11:14:19 QCDBsbPD.net
お節介は人生の衛生術の一つです。
お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より
現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。
世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より
477:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/07 11:14:53 QCDBsbPD.net
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。
三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より
世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より
およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より
478:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/07 11:15:17 QCDBsbPD.net
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。
運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。
人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より
479:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/07 11:27:54 QCDBsbPD.net
作家といふものは、いつもその時代と、娼婦のやうに、一緒に寝るべきであるか?
もちろん小説には、まぬがれがたい時世粧といふものは要る。しかし反動期における
作家の孤立と禁欲のはうが、もつと大きな小説をみのらせるのではないか?
……それにしても、作家は一度は、時代とベッドを共にした経験をもたねばならず、
その記憶に鼓舞される必要があるやうだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
480:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/07 11:28:13 QCDBsbPD.net
絶望から人はむやみに死ぬものではない。
典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
481:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/07 11:28:45 QCDBsbPD.net
芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地の
よいことをのぞまず、むしろつねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、
(那須の)与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、芸術を押しつぶして
しまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?
三島由紀夫「小説家の休暇」より
482:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/08 12:12:42 7Dl8KHts.net
あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。
自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために
身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、
果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。
ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。
三島由紀夫「憂国」より
483:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/09 23:43:00 E5mUPlGU.net
少年がすることの出来る―そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。
三島由紀夫「檀一雄『花筐』―覚書」より
484:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/10 00:01:23 twlmXWc6.net
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。
日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。
知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。
三島由紀夫「新知識人論」より
485:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/10 00:01:48 twlmXWc6.net
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。
三島由紀夫「新知識人論」より
486:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 11:27:42 k0Msp0dq.net
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、
その論理が終るまでやむことがない。
目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きて
ゐる人たちは行動といふものを忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理が
ある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや言論ではなくて、肉体行動に
帰着しなければならないことは当然なのである。
行動は一瞬に火花のやうに炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外には
なくなるであらう。
三島由紀夫「行動学入門」より
487:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 11:30:31 k0Msp0dq.net
死の向ふ側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを
考へることはできないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに
求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がない。
われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを発見しないの
かもしれない。
無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、
そこに正義運動の反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。
三島由紀夫「行動学入門」より
488:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 11:33:11 k0Msp0dq.net
賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、
賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けてゐつたのでは、賭けではない。
行動がことばでないと同様に、待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で
最も苦しい時間なのである。
自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、美がその本来の純粋な形をとる。
二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、それは花火と同じである。
しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができやうか。
三島由紀夫「行動学入門」より
489:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 11:34:22 k0Msp0dq.net
どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだ。
すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。
行動は、たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断は
なかなかつかない。歴史の中に埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為は
たくさんある。
行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせない
からこそ行動なのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
490:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/13 01:28:10 wJRvJOgk.net
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的
鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。
ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。
三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より
491:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 12:18:16 51Ol56Ko.net
どんな不キリョウな犬でも、飼ひ馴れれば、可愛くなる。
幸福といふものは、どうしてこんなに不安なのだらう!
誰も他人に忠告なんて与へられやしないよ。だから法律が、結局、人間生活のすべてなんだ。
はじめ思想や主義を作るのは男の人でせうね。何しろ男はヒマだから。
でもその思想や主義をもちつづけるのは女なねよ。女はものもちがいいんですもの。
人間には憎んだり、戦つたり、勝つたり、さういふ原始的な感情がどうしても必要なんだ。
三島由紀夫「永すぎた春」より
492:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 12:18:31 51Ol56Ko.net
美しい身なりをして、美しい顔で町を歩くことは、一種の都市美化運動だ。
現実といふものは、袋小路かと思ふと、また妙な具合にひらけてくる。
他人の心のわかりすぎる人間は、小説なんか書かない。
建設よりも破壊のはうが、ずつと自分の力の証拠を目のあたり見せてくれるものだつた。
皆が等分に幸福になる解決なんて、お伽噺にしかないんですもの。
三島由紀夫「永すぎた春」より
493:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 12:18:46 51Ol56Ko.net
あつちには病人がをり、こつちにはもう数週間で結婚する二人がゐる。人生つてさうしたもんさ。
さうして朝は、誰にとつても朝なんだ。
他人のことを考へることが、私たちのことを考へることでもある。
幸福つて、素直に、ありがたく、腕いつぱいにもらつていいものなのね。
三島由紀夫「永すぎた春」より
494:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 13:00:34 51Ol56Ko.net
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。
高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より
495:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 13:01:18 51Ol56Ko.net
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福をめちやめちやに
してしまふ毒薬ですよ。
自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より
496:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 13:01:57 51Ol56Ko.net
ねえ、人間つて、待つたり待たせたりして生きてゆくものぢやない?
愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。
三島由紀夫「班女」より
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より
497:& ◆l5UNs6LqZ./n
10/07/14 14:07:19 zW+gW5o5.net
太多??的?言无法??真?的梦,?望的?候又??希望的曙光,矛盾的心?在??去之后?始??
498:& ◆l5UNs6LqZ./n
10/07/14 14:08:58 zW+gW5o5.net
有人能看?中文??我是中国的
499:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:44:41 51Ol56Ko.net
人間の性の世界は広大無辺であり、一筋縄では行かないものだ。
性の世界では、万人向きの幸福といふものはないのである。
音楽といふ観念が音楽自体を消すのである。
嘘つきの常習犯ほど却つて、自分の喋つてゐることが嘘か本当か知らないのではあるまいか?
一瞬の直感から、女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかほとんど役に立たないと
言つていい。
三島由紀夫「音楽」より
500:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:45:04 51Ol56Ko.net
いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人が
しつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。むかしは、お婿さんの
顔も知らずに嫁入りした娘が一杯ゐるのに、それで結構愛し合つて幸福にやつて行けたもんだ。
たしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を嗅ぎ分けるといふことである。
いや、いつもそのやうにして、人間同士は出会ふのだ。
三島由紀夫「音楽」より
501:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:45:30 51Ol56Ko.net
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満(フラストレーション)
などといふ陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。人の心に
立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に
性的原因を探し出して、それによつて抑圧を解放してやるなどといふ不潔で下品な教理は、
西洋のもつとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といふ諺が、実は誤訳であつて、原典のローマ詩人
ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」といふ願望の意を
秘めたものであることは、まことに意味が深いと言はねばならない。
精神分析学者には文学に関する豊富な知識も必要だ。
三島由紀夫「音楽」より
502:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:45:54 51Ol56Ko.net
人間は、どんなバカでも『お前を盲らにしてやるぞ』と言はれれば反撥する程度の自尊心は
あるから、テレビのコマーシャルをきらふけれど、『お前の目をさまさせてやる』と
言はれて不安にならぬほどの自尊心は持たないから、精神分析を歓迎するわけですね。
男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するといふ作業よりも、過度に意識的なものを
除去して、正常な反射神経の機能を回復するといふ作業のはうが、より重要であり、
より効果的である。
見かけは恵まれた金持の息子でありながら、人生は貧乏人さへ知らない奇怪な不幸を
与へることがある。
三島由紀夫「音楽」より
503:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:46:16 51Ol56Ko.net
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体に
きらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。そこにはあらゆる美徳、
あらゆる悪徳が蔵されてゐる。そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを入れる
ことはできるだらう。しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。
三島由紀夫「音楽」より
504:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:58:18 51Ol56Ko.net
われわれは誰が何と言はうと、愛が人間の心にひらめかす稲妻と、瞥見させる夜の青空とを、
知つてをり、見てゐるのである。
どんな不まじめな嘘の裏にも、怖ろしい人間性の問題が顔をのぞかせてゐる。
神聖さと徹底的な猥雑さとは、いづれも「手をふれることができない」といふ意味で似てゐる。
強度のヒステリー性格は、受動的に潜在意識に動かされるだけではなく、無意識のうちに
識閾下の象徴を積極的に利用する。
三島由紀夫「音楽」より
505:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:58:41 51Ol56Ko.net
精神分析を待つまでもなく、人間のつく嘘のうちで、「一度も嘘をついたことがない」
といふのは、おそらく最大の嘘である。
ひとたび実存主義的見地に立てば、「正常な」人間の実存も、異常な人間の実存も、
「愛の全体性への到達」の欲求においては等価であるから、フロイトのやうに、一方に
正常の基準を置き、一方に要治療の退行現象を置くやうな、アコギな真似はできない筈である。
つまりそれはあまりにも、科学的実証主義のものわかりのわるさを捨てすぎたのである。
三島由紀夫「音楽」より
506:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/14 23:59:07 51Ol56Ko.net
社会構造の最下部には、あたかも個人個人の心の無意識の部分のやうに、おもてむきの
社会では決して口に出されることのない欲望が大つぴらに表明され、法律や社会規範に
とらはれない人間のもつとも奔放な夢が、あらはな顔をさし出してゐる。
神聖さとは、ヒステリー患者にとつては、多く、復讐の観念を隠してゐる。
三島由紀夫「音楽」より
507:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/15 17:13:59 B0PA09DC.net
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。
どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。
人間は死ぬために生きてるのぢやございません。
僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!
三島由紀夫「卒塔婆小町」より
508:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/16 11:15:38 Qj9ebQu1.net
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。
私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。
私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を
平気で歩いて差上げますわ……。
この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。
背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文。
三島由紀夫「弱法師」より
509:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/16 11:15:58 Qj9ebQu1.net
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。
われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。
形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。
三島由紀夫「弱法師」より
510:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/16 11:16:14 Qj9ebQu1.net
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。
三島由紀夫「弱法師」より
511:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/16 11:16:30 Qj9ebQu1.net
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方からこだまを返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ?何だと思ふ?あれは言葉じゃない、
歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。
三島由紀夫「弱法師」より
512:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/19 12:27:43 m/HcQQRG.net
骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
理解の通はぬ親子の間柄、兄弟の間柄は他人よりも遠くなる。
この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。
政治の要請はかうだ。いいかね。政治には真理といふものはない。真理のないといふことを
政治は知つてをる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
513:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:17:01 cymluypi.net
不在といふものは、存在よりももつと精妙な原料から、もつと精選された素材から成立つて
ゐるやうに思はれる。楠といざ顔をつき合はせてみると、郁子は今までの自分の不安も、
遊び友達が一人来ないので歌留多あそびをはじめることができずにゐる子供の寂しさに
すぎなかつたのではないかと疑つた。
凡庸な人間といふものは喋り方一つで哲学者に見えるものだ。
どこかひどく凡庸なところがないと哲学者にはなれない。
若さといふものは笑ひでさへ真摯な笑ひで、およそ滑稽に見せようとしても見せられない
その真摯さは、ほとんど退屈にちかいものと言つてよろしく、中年よりも老年よりも遥かに
安定度の高い頑固な年齢であつた。
三島由紀夫「純白の夜」より
514:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:17:21 cymluypi.net
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。現代ではそんな
女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の
推移であるやうに思はれる。ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に
死を賭けることもできるのだが、生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえない
だけのことである。どつちが不感症の時代であらうか?
どんな女にも、苦悩に対する共感の趣味があるものだが、それは苦悩といふものが
本来男性的な能力だからである。
秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と附合ふこともできない。
秘密を手なづける方法は一つしかない。すなはち膝の上で眠らせてしまふ方法である。
三島由紀夫「純白の夜」より
515:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:18:01 cymluypi.net
感情には、だまかしうる傾斜の限度がある。その限度の中では、人はなほ平衡の幻影に身を委す。
といふよりは、傾斜してみえる森や家並の外界に非を鳴らして、自分自身が傾きつつあることに
気がつかない。
粗暴な快楽が純粋でないのは、その快楽が「必要とされてゐる」からであり、別の微妙な快楽は、
不必要なだけに純粋なのだ。
貞淑といふものは、頑癬(たむし)のやうな安心感だ。彼女は手紙といいあひびきといい、
あれほどにも惑乱を露はにした一連の行動を、あとで顧みて、何一つ疾(や)ましいところはないのだと
是認するのであつた。
三島由紀夫「純白の夜」より
516:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:18:18 cymluypi.net
不安はむしろ勝利者の所有(もの)だ。連戦連勝の拳闘選手の頭からは、敗北といふ一個の
新鮮な観念が片時も離れない。彼は敗北を生活してゐるのである。羅馬(ローマ)の格闘士は、
こんな風にして、死を生活したことであらう。
恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらが
より多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ
出した手紙のなかで書いてゐる。
三島由紀夫「純白の夜」より
517:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 17:00:03 cymluypi.net
ああ、誰のあとをついて行つても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることは
ないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしてゐるけれど、
自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだとは気づいてゐない。
退屈する人は、どこか退屈に己惚れてゐるやうなところがあるわ。
夫婦と同様に、清浄な恋人同志にも、倦怠期といふものはあるものだつた。
狩人は義士ぢやございません。狩人のねらふのは獣であつて、仇ではございません。
獲物であつて、相手の悪意ではございません。熊に悪意を想像したら、私共は容易に
射てなくなります。ただの獣だと思へばこそ、追ひもし、射てもするのです。昆虫採集家は
害虫だからといふ理由で昆虫を、つかまへはいたしますまい。
三島由紀夫「夏子の冒険」より
518:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/23 11:58:18 D7I+yGV1.net
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。
精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。
三島由紀夫「青年像」より
519:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/23 11:59:51 D7I+yGV1.net
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理―磯部一等主計の遺稿について」より
520:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/23 12:00:13 D7I+yGV1.net
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか?
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理―磯部一等主計の遺稿について」より
521:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/23 12:13:09 D7I+yGV1.net
常套句を口にする男は馬鹿に見えるだけだが、女の場合、それは年齢よりももつと美を損なふのだ。
われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しやうと
放置つておくが、ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり
尻押ししたりする婦人たちがゐる。フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、
男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、女性は、女といふ領域だけしか、
自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。
惚れない限り女には謎はないので、作為的な謎を使つて惚れさせようといふつもりなら、
原因と結果を取違へたものと言はなくてはならない。
外国にゐて日本人の男女が演ずる熱情には、何か郷愁とはちがつた場ちがひな、
いたましいものがある。
三島由紀夫「不満な女たち」より
522:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/23 12:13:47 D7I+yGV1.net
高位の貴婦人であらうと、女である以上、愛されるといふことを抜きにしたいかなる権力も徒である。
女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど出来はしない。
男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。
三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より
健康で油ぎつた皮膚の人間には、みんな蠅のやうなところがある。蠅は腐敗を好むほど健康なのだ。
三島由紀夫「水音」より
523:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/25 10:25:12 nTQdoaJV.net
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。
一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。
三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より
524:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/26 13:02:40 5U27zdAm.net
ものを書くことと農耕とは、いかによく似てゐることであらう。嵐にも霜にも、精神は
一刻の油断もゆるさず、たえず畑を見張り、詩と夢想の果てしない耕作のあげくに、
どんな豊饒がもたらされるか、自ら占ふことができない。書かれた書物は自分の身を離れ、
もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ。どれだけ烈しい夜、
どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、もしその記憶が累積されてゐたら、
気が狂ふにちがひない。
三島由紀夫「書物の河(三島由紀夫展)」より
525:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/26 13:03:16 5U27zdAm.net
にせものの血が流れる絢爛たる舞台は、もしかすると、人生の経験よりも強い深い経験で、
人々を動かし富ますかもしれない。音楽や建築に似た戯曲といふものの抽象的論理的構造の
美しさは、やはり私の心の奥底にある「芸術の理想」の雛型であることをやめないのだ。
三島由紀夫「舞台の河(三島由紀夫展)」より
私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのドライヴへ私を誘ひ、
今まで見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、
衰亡といふ宿命がある。私はこの宿命を容認しない。
三島由紀夫「肉体の河(三島由紀夫展)」より
526:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/26 13:03:41 5U27zdAm.net
いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、死の瞬間にしか
ないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。
言葉を介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、
人々が寄つて来ないのも尤もだ。
三島由紀夫「行動の河(三島由紀夫展)」より
527:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/28 10:59:18 x0Y7Tm/T.net
固さは脆さであります。
思想は多少に不拘(かかはらず)、暴力的性質を帯びるものである。
腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。
三島由紀夫「卵」より
528:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/28 11:36:47 x0Y7Tm/T.net
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。
人間の醜い慾の争ひをこえてまで顕現する美は、あるひは勝利者の側にはあらはれず、
敗北者や滅びゆく者の側にだけこつそりと姿を現はすのかもしれない。
誰の身の上にも、その人間にふさはしい事件しか起らない。
三島由紀夫「三熊野詣」より
529:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/30 00:01:28 DtbhcYBX.net
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは
自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された
無邪気な腕白のはうを好むものである。
強欲な人間は、よくこんな愛くるしい笑ひ方をするものである。強欲といふものは
童心の一種だからであらうか。
よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。
三島由紀夫「訃音」より
530:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/30 23:53:48 DtbhcYBX.net
一部の大人が考へてゐるやうに、戦後の青年が一人残らず十代で童貞を失つてゐるなどといふ
莫迦げた憶測は、事実から遠いものだ。どんな時代だつて、青春の生きにくさは、
外部よりも内部にあるのだ。今日のやうに、青春を妨げる外部の障害の多い時代には、
内部の障害を気にしないでゐられるので、童貞を失はないまじめな青年の数は却つて
多いといふ逆の理窟だつて成立つ筈だ。
大体甘い物語には甘い考へがつきものなのは已むをえない。狂気といふものがもしこんなに
甘い物語を生むものなら、正気の僕たちは、正気では考へられない甘い空想を、それに
はなむけすべきではなからうか? それとも君は、僕の話が嘘つぱちだと云ふのぢやあるまいね。
三島由紀夫「雛の宿」より
531:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/01 10:07:23 K1N8dDBU.net
男の天才、女の美貌、これこそは神様のさづかりもので、あだやおろそかにはできんのだよ。
天才といふやつは、自分で自分が思ふやうにならず、この世の通常ののぞみは全部
捨てなければならん宿命に生まれついてゐる。美人も同様に不自由な存在なのさ。
自分で自分の美に一生奉仕しなければならんのだ。
美に対する女性の感受性は、凡庸でなければならなかつた。機関車を美しいと思ふやうでは
女もおしまひである。女にはまた、一定数の怖ろしいものがなければならず、蛇とか毛虫とか
船酔とか怪談とか、さういふものは心底から怖がらなければならぬ。夕日とか菫の花とか
風鈴とか美しい小鳥とか、さういふ凡庸な美に対する飽くことのない傾倒が、女性を真に
魅力あるものにするのである。
三島由紀夫「女神」より
532:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/01 10:07:50 K1N8dDBU.net
個性美は飽きの来るものである。もつとも大切なのは優雅だ。女の個性が優雅をはみ出すと
大てい化物になつてしまふ。一芸に秀でることはもつとも禁物だつた。美といふものは本来
微妙な均衡の上にしか成立たないものだから。
女をわれわれが美しいと思ふのは、欲望があるからですよ。ほんたうに欲望を去つて、
なほかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。自然とか静物なら
美しさがよくわかるし、その美しさは多分贋物ぢやないでせう。しかし女はね。
僕はいはゆる美人を見ると、美しいなんて思つたことはありません。ただ欲望を感じるだけです。
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。何故つて、
醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。
三島由紀夫「女神」より
533:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/01 10:08:04 K1N8dDBU.net
美といふものは第三者から見て快いのみならず、美しい者のお互にとつても快いのである。
お互が自分の美しさを知つてゐても、鏡によらずしてはそれを見ることができないといふのは
宿命的なことだ。自分が美しいといふ認識は、たえず自分から逃げてゆくあいまいな
不透明な認識であつた。結局この世では他人の美がすべてなのだ。
女の人には、自分で直感的に見た鏡が、いちばん気に入る肖像画なんです。それ以上の
ものはありませんよ。
火に対抗するのには氷といふのはまちがひですよ。火には火、もつと強い、もつと猛烈な
火になることです。相手の火を滅ぼしてしまふくらいな猛火になることですよ。
さうしなければ、あなたの方が滅びます。
一つの悪い評判といふものは、十の悪い評判とつながつてゐるものなんです。
三島由紀夫「女神」より
534:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/02 10:34:23 a4rQyiaI.net
たとへ単なる私慾も、程度が強まり輪郭がひろがれば、人間のふしぎな本能から、
無私の要素を含まずにはいられない。同時に無私の情熱も、
ちよつと弛んだ刹那には私慾に似るのだ。
集中といふことは、夢中になるといふことぢやない。問題は持続だ……
祖父は目的を弁(わきま)へなかつたが、自分の効用はいつも自覚してゐた。箒が、
「自分は物を掃くためにある」と確信してゐるあひだは、どんなことをしたつて箒は
孤独にならない。
まだ持たないものを思ひ描くことは人を酔はせるが、現に持つてゐるものはわれわれを
酔はせない。もし酔ふとしても、それは人工的な酔ひである。
そもそも性慾とは、人間を愛することであらうか?
三島由紀夫「沈める滝」より
535:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/02 10:34:42 a4rQyiaI.net
負と負を掛けて正になる数式のやうに、退屈した人間とのお喋りだけが、退屈した人間を、
正にその退屈から救ふのかもしれない。
誰をも愛することのできない二人がかうして会つたのだから、嘘からまことを、虚妄から
真実を作り出し、愛を合成することができるのではないか。負と負を掛け合はせて
正を生む数式のやうに。
遊び飽いた人間といふものには、一種独特の匂ひがある。遊び人同士はお互ひの嗅覚で
すぐそれを嗅ぎあてる。
信じるなら、仕方ないから、丸ごと信じなくちや。なるほど、女の真実を信じることと、
女の嘘を信じることは、まるきり同じことなんだ。
われわれを動かすのは概してありきたりな、しかし虚飾のない手紙である。
三島由紀夫「沈める滝」より
536:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/02 10:34:57 a4rQyiaI.net
技術がもし完全に機械化される時代が来れば、人間の情熱は根絶やしにされ、精力は
無用のものになるだらうから、科学技術の進歩にそそがれる情熱や精力は、かかる
自己否定的な側面をも持つてゐる。しかし幸ひにして、事態はまだそこまでは来てゐない。
ダム建設はこのやうな意味で、一種の象徴的な事業だと思はれた。われわれが山や川の、
自然のなほ未開拓な効用をうけとる。今日では幸ひに、われわれ自身の人間的能力である
情熱や精力の発揮の代償としてうけとるのだ。そして自然の効用が発掘しつくされ、
地球が滓まで利用されて荒廃の極に達するまでは、人間の情熱や精力は根絶やしには
されまいといふ確信が昇にはあつた。
三島由紀夫「沈める滝」より
537:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/02 10:35:11 a4rQyiaI.net
ダム建設の技術は、自然と人間との戦ひであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を
掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかつた。
あの幸福な予定調和を失ひ、人間主義の下における使命感と分業の意識を失つた技術は、
孤独になりながらも、今日ではエヴェレスト征服にも似たかうした人間的な意味を
もつやうになつた。
盲目になれる才能、……内に発見するためには盲目にならなければならない。
どんな種類の愛情でも必ずエゴイズムの形をとる。
悲劇を演じるやうな見かけを持つて生れなかつた男が、悲劇を演じなければならないとは、
本当の悲劇である。
素朴な感情には本来素朴な表現形式がそなはつてゐるものである。
三島由紀夫「沈める滝」より
538:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/02 10:35:32 a4rQyiaI.net
にせものの夜の中から、本当の夜がはじまる。電燈のあかりは、煌めきを増し、暖かみを
帯びる。時折あけられる石炭の投入口から、のぞかれるストーヴの焔は、新鮮な懐かしい
火の色をしてゐる。
公衆を前にして自分の役を演ずることは容易ではないが、却つて孤独のはうがわれわれを、
われとわが役の意識せざる俳優にしてしまふのに力がある。
女たちの纏ふものは、みんな、藻だの、鱗だの、海に似たものを思ひ出させると昇は思つた。
しかし漂つてゐるのは磯の香ではない。ものうげな、濃密な、甘くて暗い匂ひである。
夜の匂ひといふよりは、女たちの時刻、午後の匂ひである。
あなたはダムでした。感情の水を堰(せ)き、氾濫させてしまふのです。
三島由紀夫「沈める滝」より
539:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/02 10:37:05 a4rQyiaI.net
どんな分野にも、陰惨なほど真摯な権威者といふものが居り、金魚のことなら世界的権威で
あつたり、楔形(せつけい)文字についてはその人にきかなければならないと云ふやうな
人がゐる。普遍的であるべき科学的技術の世界にもさういふ人がゐて、神秘な力で、
ほかの人たちの上に、卓越してゐるのを見るのはふしぎなことである。
こんな種類の人間を押し進めてゆく情熱には、何か最初に、最低の線でしか社会と
つながるまいとする決意があつて、結果的には心ならずも、最高の線で社会とつながつて
しまふやうになるものだ。
時として精神の解放には、巨人的なもの、威圧的なもの、精神をほとんど押しつぶすやうな
ものが必要である。
三島由紀夫「沈める滝」より
540:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/03 10:30:37 R0cHVZ1T.net
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる
救済の風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。
陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず。
三島由紀夫「英霊の声」より
541:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/03 10:30:57 R0cHVZ1T.net
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「英霊の声」より
542:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/04 11:19:30 CGlcQRdA.net
中世欧羅巴(ヨーロッパ)の騎士たちは戦争のみならず日常生活の随所に織り込まれる
決闘によつてたえず生命の危険にさらされてゐた。それは古今東西変はらない女たるものの
天賦の危険、即ち貞操の危険と相頡頏するものであつた。つまり男女の危険率が平等であつたのだ。
さういふ時、女は自分の貞操を、男が自分の生命を考へるやうに考へただらうと思はれる。
貞操は自分の意志では守りがたいもので、運命の力に委ねられてゐると感じたに相違ない。
また貞操は貞操なるが故に守らるべきものではなく、それ以上の目的の為には喜んで
投げ出されるべきであつた。と同時に、男がつまらない意地や賭事に生命を弄ぶことが
あるやうに、女もそれ以外に賭ける財産がないではないのに、一番見栄えのする貞操を、
軽い手慰みに賭けて悔いないこともあつたにちがひない。その勇敢、その勇気が、かくして
時には異様に荘厳な光輝を放つたことがあつたかもしれない。……
余裕は反省を絞め殺してしまふものだ。
三島由紀夫「夜の仕度」より
543:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/04 11:20:33 CGlcQRdA.net
往時より、月を見て暮らした人、透視術に淫した人は、疲労困憊して狂気か死への途を
辿るといはれる。さやうな疲れは人間の能力を超えたものへの懲罰であり、同時に
深く人性の底に根ざした疲れである。
死すべき時は選びえずともどうして死所を選びえぬことがあらう。
三島由紀夫「中世」より
女を知らない体がどうして不幸なものですか。わたしの体を知つた男はみんな不幸になる
ばかりだわ。わたしお兄様をお可哀想になんて言へないことよ。
三島由紀夫「家族合せ」より
544:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 10:59:42 Ez6vk3ij.net
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から
生まれるものである。われわれが危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を
注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。もし、想像力がノイローゼの
原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、
示すことができないといふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、
合成された硬いルビーかサファイアとすり合さなければ、ダイヤモンドであることが
証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
545:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 11:00:07 Ez6vk3ij.net
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに
男がどうあるべきかといふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、
日本もいつかあのやうな事件の非常に拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と
同じ身の上になるかもしれないのである。
危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、
結婚し、子供を生み、子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたい
といふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、その生活の必要のためには、何ものも
犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が
来るときに必要なのは男の力である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
546:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 11:00:22 Ez6vk3ij.net
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は
鳥の影のやうなもので、一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふ
からである。
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、
どんな快楽も信儀の上に成り立つといふ考へだからである。
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。
服装は強ひられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
547:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 11:00:45 Ez6vk3ij.net
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、
一たび努力の義務をはづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに
困つてしまふ。
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、
不思議な性格を持つてゐる。
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く
走ることを要求してゐるのである。
これが現代日本の社会のひづみの、おそらく根本原因である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
548:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 12:00:21 Ez6vk3ij.net
この世界には不可能といふ巨きな封印が貼られてゐる。
本当の危険とは、生きてゐるといふそのことの他にはありやしない。生きてゐるといふことは
存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの無秩序にまで解体し、その不安を
餌にして、一瞬毎に存在を造り変へようといふ本当にイカれた仕事なんだからな。こんな
危険な仕事はどこにもないよ。存在自体の不安といふものはないのに、生きることが
それを作り出すんだ。
男は大義へ赴き、女はあとに残される。
大義とは? それはただ、熱帯の太陽の別名だつたかもしれないのだ。
三島由紀夫「午後の曳航」より
549:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 12:00:40 Ez6vk3ij.net
ところでこの塚崎竜二といふ男は、僕たちみんなにとつては大した存在ぢやなかつたが、
三号にとつては、一かどの存在だつた。少くとも彼は三号の目に、僕がつねづね言ふ世界の
内的関聯の光輝ある証拠を見せた、といふ功績がある。だけど、そのあとで彼は三号を
手ひどく裏切つた。地上で一番わるいもの、つまり父親になつた。これはいけない。
はじめから何の役にも立たなかつたのよりもずつと悪い。
いつも言ふやうに、世界は単純な記号と決定で出来上つてゐる。竜二は自分では知らなかつた
かもしれないが、その記号の一つだつた。少くとも、三号の証言によれば、その記号の
一つだつたらしいのだ。
僕たちの義務はわかつてゐるね。ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理
はめ込まなくちやいけない。さうしなくちや世界の秩序が保てない。僕たちは世界が
空つぽだといふことを知つてるんだから、大切なのは、その空つぽの秩序を何とか保つて
行くことにしかない。僕たちはそのための見張り人だし、そのための執行人なんだからね。
三島由紀夫「午後の曳航」より
550:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/05 12:01:22 Ez6vk3ij.net
血が必要なんだ! 人間の血が! さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果てて
しまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取つて、死にかけてゐる宇宙、
死にかけてゐる空、死にかけてゐる森、死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちやいけないんだ。
彼はもう危険な死からさへ拒まれてゐる。栄光はむろんのこと、感情の悪酔。身をつらぬく
やうな悲哀。晴れやかな別離。南の太陽の別名である大義の叫び声。女たちのけなげな涙。
いつも胸をさいなむ暗い憧れ。自分を男らしさの極致へ追ひつめてきたあの重い甘美な力。
……さういふものはすべて終つたのだ。
誰も知るやうに、栄光の味は苦い。
三島由紀夫「午後の曳航」より
551:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/06 10:42:59 Ks/gWJ16.net
世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないといふ気持と、世界が無意味だから、
死んでもかまはないといふ気持とは、どこで折れ合ふのだらうか。
人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。もつとも、いつでも死ねる気でなくては、
さういふ心境にはなれませんがね。生きたいといふ欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せて
しまふんです。
自殺だけは、どう考へても億劫な気がした。折角自堕落かいい気持になつてゐるときに、
つい目と鼻の先にあるタバコをとりに立つ気がどうしてもしない。十分タバコを喫みたい気は
あるのだが、ここから手をのばしても届かないことのわかつてゐるタバコをとりに立つことが、
何だか故障した自動車の後押しをたのまれるほど、しんどい仕事に思はれる。それがつまり
自殺なのだ。
人生が無意味だ、といふのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーが
要るものだ。
三島由紀夫「命売ります」より
552:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/06 10:48:06 Ks/gWJ16.net
孤独な人間はお互ひの孤独を、犬のやうにすぐ嗅ぎわけるのだ。
…さういふ人間に限つて、自分の巣をきらびやかに飾る習性があるのはふしぎなことだ。
羽仁男の考へは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に生きるといふ
考へだつた。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかつた。
まづ意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面するといふ人間は、
ただのセンチメンタリストだつた。命の惜しい奴らだつた。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座してゐることが
明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする必要があるだらう。
三島由紀夫「命売ります」より
553:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/06 10:49:26 Ks/gWJ16.net
何の組織にも属さないで、しかも命を惜しまない男もゐるといふことを知らなくちやいかん。
それはごく少数だらう。少数でも必ずゐるんだ。
命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはゐないからね。犯人になるのは、
命を買つて悪用しようとした人間のはうだ。命を売る奴は、犯人ぢやない。ただの人間の屑だ。
それだけだよ。
三島由紀夫「命売ります」より
554:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/08 00:20:37 yjUYt+eD.net
経済学の学説なんぞといふものは、どつちみち如意棒のやうなもので、エイッと声をかけて、
耳へ入るだけの小ささに変へてしまへばやすやすと握りつぶせるのである。そもそも唯物論は、
『金で買へないものは何もない、どんな形の幸福も金で買へる』といふ資本主義的偏見の
私生児なのである。
感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままある。
三島由紀夫「青の時代」より
555:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/08 00:20:54 yjUYt+eD.net
人間的な遣り方といふものは、人に馬鹿にされまいといふ馬鹿げた用心から、完全に
免かれた一部分を生活のなかにもつことだ。
しばしば人を愛してゐることに気がつくのが遅れるやうに、われわれは憎悪の確認についても、
ともするとなほざりな態度をとる。さういふときわれわれは自分の感情の怠惰を憎らしく
思ふのである。
三島由紀夫「青の時代」より
556:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/08 00:21:18 yjUYt+eD.net
報ひとは何だらう。そんなものがあつてよいだらうか。報ひといふ考へ方は、いま悪果を
うけてゐる者が、むかしの悪因の花々しさに思ひを通はす、殊勝らしい身振にすぎぬではないか。
値踏みといへば、五千円といふまちがへやうもない名前をつけてやる行為です。世間一般でよぶ
鷲の剥製といふ名の代りに、値踏みをする人は五千円といふ特別誂への名でよびかけます。
すると鷲の剥製は、魔法の名で呼ばれたつかはしめの鳥のやうに歩き出して彼に近づいて
くるのです。
…人形に魂を吹き入れて『立て!』といふとき、魔女たちはこれに似た感情を味はひは
しないでせうか。人は値踏みによつてのみ対象に生命を賦与(あた)へることができるのです。
これ以上打算のない行為があるでせうか。
三島由紀夫「宝石売買」より
557:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/08 16:20:10 yjUYt+eD.net
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、
このやうな光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、
日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、
それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。
三島由紀夫「舞楽礼讃」より
日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、
強い単純性に還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、
くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。
生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の
生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。
ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人も
この点では同じである。
三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より
558:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/08 19:57:25 WjKEtefy.net
「お腹を切ると痛い」
三島由紀夫
559:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/09 12:24:57 OkfsY2bf.net
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と
私の呼ぶところのものである。別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、
そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の常態だと説いた哲学からの、
なまぬるい離反なのであつた。
舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない。
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよい。
「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における
登場と退場の大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、
役者が退場しなければならぬ。
能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、
大きな顔はできない。
三島由紀夫「芸術断想」より
560:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/09 12:30:47 OkfsY2bf.net
遠い花火があのやうに美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が
空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。光りは言葉であり、
音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、
別の独立な使命を帯びて、われわれの耳に届くのである。
『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、
それだけなのだ。
「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、
「昔はよかつた」といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、
特に若い歌舞伎俳優に銘記してもらいたい。
三島由紀夫「芸術断想」より
561:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/09 12:33:40 OkfsY2bf.net
小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なものであるから、
その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。
ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、
象徴主義にとつてさへ敵である。
「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と
形而上学とが一小節づつ平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の
最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の
無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから「トリスタン」は
怖ろしいのである。
三島由紀夫「芸術断想」より
562:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/09 12:41:15 OkfsY2bf.net
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて
集約されてゆく作業である。それだといふのに、舞台から向ふ側に属する人たちのはうが、
観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を
宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の待遇を受けて
ゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、
観客席に坐るといふ人間の在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。
示されるもの、見せられるものを見る、といふ状況には、何か忌まはしいものがある。
われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、本来、
お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。
三島由紀夫「芸術断想」より
563:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/09 12:43:08 OkfsY2bf.net
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、
晴朗な悪意、幸福感に充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることを
たのしむのである。そのもつとも端的なあらはれが劇場芸術だと言つてよい。
劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で固有の役割を果してをり、
決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。
三島由紀夫「芸術断想」より
564:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/10 00:00:04 mEEzSGKA.net
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆」より
人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。
三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より
565:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/10 00:00:46 mEEzSGKA.net
歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、
はじめから入念に選び出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。
三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、
たくさんの船虫に蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、
風雅な住ひを飾るのだ。
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、
観客席のはうへ顔を向けてゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、
しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より
566:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/10 10:41:45 mEEzSGKA.net
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、
善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。
人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。
三島由紀夫「赤ちゃん時代―私のアルバム」より
567:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/11 10:04:54 T82H4T3+.net
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、
独特の血なまぐささがある。概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾が
くすぶつてゐるのである。
三島由紀夫「終末感と文学」より
今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、
ある場合には、社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、
平べつたい人間認識では、とても片付かない。
三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、
昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけに
エチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ―ペンは剣に通ず」より
568:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/11 10:05:19 T82H4T3+.net
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、
かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ
念願の仮の実現だからである。
三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か
一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。
三島由紀夫「社交について―世界を旅し、日本を顧みる」より
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より
569:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/11 10:05:36 T82H4T3+.net
夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。
性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、
女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、
世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。
三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、
ロックンロール的要素もあるのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
570:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/13 15:22:27 HVAb02Vg.net
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり
新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に
一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて古ぼけた
滑稽なものと見られて行きます。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは
理知のもつともなごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
571:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/14 12:00:49 fWcsINM3.net
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは
作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。
三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より
よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。
三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より
「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」
「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ
引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に
比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に
基づく「名」を与へることなのだ。
三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より
572:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/14 12:11:57 fWcsINM3.net
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。
共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は
ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の
相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが
ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ
無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ
イロニイが。
日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は
弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。
三島由紀夫「林房雄論」より
573:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/14 12:14:15 fWcsINM3.net
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を
見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には
循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」
といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。
「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より
天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の
諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。
三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より
574:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/16 13:18:49 /ACVfYS2.net
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、
「核兵器よりもまづ駆け足」といふことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。人間の脚は、
特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を持つのである。
三島由紀夫「自衛隊と私」より
空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。
日本の戦後も占領軍による武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、
徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道をふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。
三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より
正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、
汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。
三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より
575:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/16 23:02:32 /ACVfYS2.net
文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自殺の真のモラーリッシュな
契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、
武士の自刃しかみとめない。
三島由紀夫「日沼氏と死」より
コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。
踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば
おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に
足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、
これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。
踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない
といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自殺の目的に照らせば、
明らかに彼の意志に反したことである。
三島由紀夫「武田泰淳氏―僧侶であること」より
576:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/17 23:50:39 2iOTXjqj.net
最上の逃避の方法は、相手に出来るだけ近づくことである。
風呂に入るときに腕時計を外して入るやうに、女に向ふときは精神を外してゐないと、
忽ち錆びて使ひものにならなくなりますよ。それをやらなかつたので、私は無数の時計を
失くして、一生、時計の製造に追ひ立てられる始末になつたのです。錆時計が二十個
集まつたので、今度全集といふやつを出しました。
打算は愛によつて償はれると考へるのが青年の確信ですね。計算高い男ほど自分の純粋さに
どこかでよりかかつてゐるものです。
死人の目で見たときに、現世はいかに澄明にその機構を露はすことか! 他人の恋情は
いかにあやまりなく透視できることか! この偏見のない自在の中で、世界はいかに
小さな硝子の機械に変貌することか!
決定的な瞬間といふものは、心の傷に対して医薬のやうに働らく場合がある。
三島由紀夫「禁色」より
577:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/17 23:59:32 2iOTXjqj.net
男の目の中に欲望を見出す時ほど、女がおのれの幸福に酔ふ時はない。
ナルシスは、その並々ならぬ誇りのために、却つて不出来な鏡を愛する場合がある。
不出来な鏡は少なくとも嫉妬を免れしめる。
人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。
現代では、われわれの教養の中から、かつてあれほど精細を極めてゐた悪徳に関する教養が、
根こそぎ葬り去られてしまつた。悪徳の形而上学は死んでしまひ、その滑稽さだけが残つて
笑ひものにされてゐる。(中略)
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。
三島由紀夫「禁色」より
578:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 00:00:32 tuKsSxmu.net
精妙な悪は、粗雑な善よりも、美しいから道徳的なのです。古代の道徳は単純で力強かつたから、
崇高さはいつも精妙の側にあり、滑稽さはいつも粗雑の側にあつた。ところが現代では、
道徳が美学と離れた。道徳は卑賎な市民的原理によつて、凡庸と最大公約数の味方をします。
美は誇張の様式になり、古めかしくなり、崇高であるか、滑稽であるか、どちらかです。
この二つは、現代では、同じものをしか意味しません。
無道徳な似非近代主義と似非人間主義が、人間的欠陥を崇拝するといふ邪教を流布した。
近代の芸術は、ドン・キホーテ以来、滑稽崇拝のはうへ傾いてゐます。
本当は、人間が人間である以上、世間でふつうさうしてゐるやうに、人間以外のもの、
神だとか、物質だとか、科学的真理だとかを援用したがるはうが、もつとずつと人間的では
ありますまいか。
三島由紀夫「禁色」より
579:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 00:04:18 tuKsSxmu.net
青春の死の耐へがたさに比べれば、肉体の死が何程のことがあらうか。多くの青春が
さうであるやうに、(何故かといふと青春を生きることはたえざる烈しい死であるから)
かれらの青春もいつも新たな破滅を夢みてゐた。死に臨んで美しい若者は莞爾たる筈であつた。
思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式なのだ。大きな鼻を持つた男は、大きな鼻
といふ思想の持ち主であり、ぴくぴく動く耳を持つた男は、従つてまた、どう転んでみても、
畢竟するに、ぴくぴく動く耳といふ独創的な思想の持ち主である。
生活を侮蔑することによつて生活を固執すること、この奇妙な信条は、芸術行為を無限に
非実践的なものにしてしまふ。芸術によつて解決可能な事柄は存在しない。
三島由紀夫「禁色」より
580:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 00:05:13 tuKsSxmu.net
俊輔の孤独は、それがそのまま深い制作の行為になつた。彼は夢想の悠一を築いた。
生に煩はされず、生に蝕まれない鉄壁の青春。あらゆる時の侵蝕に耐へる青春。
青春の一つの滴のしたたり、それがただちに結晶して、不死の水晶にならねばならぬ。
青春が無意識に生きることの莫大な浪費。収穫(とりいれ)を思はぬその一時期。生の破壊力と
生の創造力とが無意識のうちに釣合ふ至上の均衡。かかる均衡は造型されなければならぬ。
三島由紀夫「禁色」より
581:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 10:19:46 tuKsSxmu.net
ウソの友情より、本当の憎悪のはうが美しい。
女同士の喧嘩の場合は、打たれた女より、打つた女のはうが百倍も可哀想な女なのよ。
日本人のくせに髪を赤毛に染めてゐたりする女を見ると、唾を引つかけてやりたくなる。
当事者といふものは、物事の表面にごく見易くあらはれてゐる異常さに、なかなか
気がつかないものである。
思つてることが、しらない間に独り言になつて出るといふことほど、わびしい老いの兆はないな。
ドライ・マルティニの好きな顔といふのがあるのである。油断ならぬ顔つきの人間にそれが多い。
テキサスあたりの大男で、人のいい顔をした人物が、オールド・ファッションドなんかを
呑むのと対蹠的だ。
緑は顔いろをわるく見せるが、もともとわるい人の顔色はよく見せる。
とても面白いと思つて見た映画は、二度見てはいけないんです。
思ひ出といふのは、もう固まつた美術品みたいなものなんです。もう誰も手を加へることの
できない、完成品の美なんです。
三島由紀夫「複雑な彼」より
582:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 10:20:19 tuKsSxmu.net
心といふものは地図に似てゐる。
高低がある。山がある。川がある。等高線がある。
山の高みに達すると、のびやかな平野の眺めがひらけ、今までの苦しい登り道を忘れさせる
やうな、愉しい下り坂がはじまる。
そこに又、湖がある。池がある。川がある。あるひは谷間がある。
縁は引力よりも偉大かもしれん。これは、もう決められてゐることで、ほとんど引力を
感じないでも、すこぶる深い縁といふものもあるんだから。
僕はアル中の女とボクシング・ファンの女は、心の底から大きらひだ。どつちも
フラストレーションの固まりの、ひどく下品な女なんだ。
戦つてもゐない女が、生意気に、ひまつぶしにスリルと興奮を求めて、ボクシングが
好きになるといふことはゆるせないんだよ。それは絶対に下品だからな。
私が恋してゐるのは、お父様が決して認めようとなさらないやうな、《複雑な彼》なのです。
いつでも歴史を動かすのは個人なんだよ。それも一人の青年の力なんだよ。『関係ナイ』と
思つてゐるのは、自ら、関係を持たうとしないだけのことで、もし一人の青年が身を挺すれば、
アジアを救ふことができるのだ。
三島由紀夫「複雑な彼」より
583:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 19:22:07 tuKsSxmu.net
刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、
そのまま精神のあらはれになるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、
といふ要請から生れた言葉であらう。道具が生体の一部になればなるほど、道具はただの
道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の一本の枝になつて、
そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。
三島由紀夫「空手の秘義」より
「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、
空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。
三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」より
584:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 19:46:32 tuKsSxmu.net
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、
情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の
上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に
墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、
矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、
真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より
電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて
動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。
人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。
三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より
585:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/18 19:52:49 tuKsSxmu.net
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て
留保したものが日本の天皇制である。天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、
帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき東洋文化の現代文化へのかけはし、
その最後の理解の橋も失はれるのである。
三島由紀夫「偶感」より
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から
何ものかを汲まねばならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の
文化がつひに死滅するときであらう。
三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より
586:名無しさん@お腹いっぱい。
10/08/19 12:01:42 yDX6MZNY.net
佃煮や煮豆の箱がいつぱい並んでゐる。福神漬のにほひがする。そぼろ、するめ、わかめ、
むかしの日本人は、粗食と倹約の道徳に気がねをして、かういふちつぽけな、あたじけない
享楽的食品を、よくもいろいろと工夫発明したものである。
正義を行へ、弱きを護れ。
自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。
とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。人生といふやつは、まるで人絹の
柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、なかなか業(わざ)がきかないのであつた。
人生つて、右か左か二つの道しかないと思ふときには、ほんの二三段石段を上つて、
その上から見渡してみると、思はぬところに、別な道がひらけてるもんなのよ。さうなのよ。
人間には、自由だけですまないものがある。古い在り来りな、束縛を愛したい気持もある。
三島由紀夫「につぽん製」より