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今から約二十年前筆者が岡山縣廳奉職時代、同縣下の部落を一巡した際、眞庭郡久世町字上××部落の墓地に於て、天明以前の墓碑には皆「अ」を冠せる眞言宗の戒名なるに、天明以後のそれは何れも「釋」を冠せる眞宗の法名であるのを見て、此の部落も亦最初よりの眞宗門徒ではなかつたことを知り、次で同郡落合町××部落內にある、眞宗寶福寺境內に觀音堂の存することによつて、益々其の信仰變遷の跡を詳にし、更に同部落の墓地に就て調査したるに、天明以前のものは久世町のそれに同じく、眞言宗の戒名を刻し、天明以後は何れも眞宗の法名なるを見、茲に天明年代を劃して、其の宗派の一變せることを慥め得たのであつたが、百尺竿頭更に一步を進めて、何故に眞言宗を眞宗に改宗したかといふ確たる史實を摑まうとしたが、不幸にして寺院、部落共に往年火災に罹り、凡ゆる舊記を焼失した爲何等擄る所がなかつたので頗る遺憾としてゐたのであつた。
更に同縣阿哲郡刑部町字××部落の墓地に就て見るに、面積約六十坪の最前部に、藥師堂があり、境內に大小百二三十基の墓石があつて、其の中の文化文政以後の墓碑は、何れも現在の信仰である淨土眞宗を表示する「釋××」と刻してあるが、天明以前のものには皆「अ○○信士」の如く明かに眞言宗の戒名を刻んであり、而もअを刻した墓碑の多くは、無殘にも地上に倒され、又は墓地の外廓用として積み重ねられてゐるのを見て、齊しく祖先の墓石でありながら、改宗前の宗派に對する反感が、軈て祖先の墓碑をまで此の如く輕んずるに至らしめたといふ恐るべき人心の動搖を慨歎すると共に、其の行爲が道德的に、祖先を恥かしめ且つ自己を辱かしめてゐることを覺らないのを裏心氣の毒に思ひ、土地の有力者某氏に「祖先尊崇の爲にも又信仰變遷の歷史を明かにする爲にも、倒れたる墓石、省みられない墓石を復舊されるやう」注意したのであつた。
又同縣川上郡成羽町字××部落の墓地に於ても同樣、天明以前は眞言宗の戒名、天明以後は眞宗の法名となつてゐたのである。