19/07/28 08:29:22.88 If/FD1y/.net
一応専門的な反論を書いてみる
終わりなき日常を生きろは、
フランシス・フクヤマの歴史の終わりが元ネタであり、
そのまた前にはマルクスの疎外論・物象化論があって、
そのマルクスの前身にはヘーゲル哲学がある。
このヘーゲル哲学が、かの有名な正反合の弁証法や
ドイツ観念論にも関わっている。
ヘーゲルの少し前の潮流がイマヌエル・カント
だけど、今回は関係無さそうなので省く。
ヘーゲルと言えば歴史哲学であり、
ドイツ観念論と言えばロマン主義である。
歴史を無理やり終わらせれば、ロマン主義的な発露になってしまい
この事件のように一線を超えてしまう。
おそらくは、宮台の終わりなき日常に挑もうとしたのだろう。
だが理解度が足りないと、このように終わらせた途端に、システムに
よって封じ込めていたものがパンドラの箱のごとく飛び出してくる。
宮台にしても日常の力によってオウム的なるものを
封じ込めようとしていたわけで、迂闊に終わらせてしまうと歴史が
暴走する。犯人も小説家を目指していたらしく、内省で日常を終わら
せていた懸念がある
実は根底で対比させているのは 終わり・終わらない
だけではなくもう一方で 日常・歴史 がある。
なので 終わりなき日常 を終わらせてしまうと
終わりなき歴史が 飛び出してきて
終わりなき差別や闘争に移行してしまうのである。
さてこのからくりを理解している人がどれだけいるのかな?