19/09/24 21:09:37.32 FoBwYuX4.net
>>226
禅問答のような答えになってしまいますが、更に話を進めると、結局執着を手放すとか解脱とかあるいはご利益は、宗教の専売特許であるわけではないんです。
宗教など利用しなくとも、自己の本質を知ることが出来ればそれでいい話。
それで話は終了。
また、どんな仕方であれ自己の本質を知れば、手放すとか解脱やご利益などそもそも必要無かったことを知ります。
私の話は雲を掴むような話になってしまいます。
お釈迦さんの解明したことってのは、そもそも執着を手放すことでさえ超えている。
なぜなら、執着を手放す以前にそもそも執着出来るものなんてないんです。
なぜなら全ては無常で空なのだから。
無常や空は実体を持たないので、執着しようがない。
よく仏教界で言われることは、悟ってしまえば諸行無常でさえ存在しないことを悟ると言われています。
なぜならあらゆることが無実体であれば、元々諸行でさえ存在しえないからです。
ここが仏教の肝です。
新興宗教は、この仏教が解き明かしたあらゆるものの無実体性を無視する。
だから、現世利益などという執着できる物事をでっち上げて信者を釣るための餌にする。
この世は幻想です。
仏が夢見る、夢の中であらゆる仏の可能性が花開く仮想ワールドです。
我々は、仏の夢に登場する仏の分身キャラクターです。
迷いというのは、仏の見る夢の仮想ワールドや分身キャラクターをリアルと勘違いして、個人キャラクターを自分と勘違いしてはまり込むこと。
一方で悟りや解脱というのは、自分の焦点を夢中の個人キャラクターから夢そのものを生み出す仏に移すこと。
そうすると、自己というキャラクターは、「自分は個人」という勘違いが編み出した創作ストーリーに過ぎないことを知ります。
我々とは、個人人生という創作物語を遥かに越えた、全ての夢中のキャラクターを生み出す仏です。
世界とは、仏である自分が夢見ていた自作自演の場。
悟りとは、単一である仏の立場に復帰して、仏と共に多様という仏の可能性の自作自演を探求し続けること。