15/04/12 15:23:11.38 .net
徳川家康の原作は第二次大戦後の、国民の間に「戦争はもう懲り懲り」という気分が行き渡っていた時代の作品です。
このため、徳川家康の行動も「平和希求のため」という戦国時代にはありえない理想主義で書かれています。
現実は津川・北大路路線が当たっていたと思います。
信長は単に天下様になりたかったのではありません。
産業振興に非効率な中世の政治経済システムを一掃したかったのです。
このため、中世システムに寄生していた寺社、公家、既存の大名は一掃したいと考えていました。しかし、旧来勢力にすれば存亡の危機ですから、窮鼠猫を噛むで、必死の抵抗があり、結局信長一代では天下統一はできませんでした。
秀吉はこれを見ていましたから「地方の大大名などを滅ぼさずとも、奴らのかつぐ神輿に乗れば天下統一ができたのに、総見院さま(信長)はなぜ意地になっておられたのか」とばかり、上杉、毛利、徳川、島津、長宗我部、伊達といった大大名との連合政権を目指しました。
これによって大名の抵抗がなくなり、あっというまに天下統一ができましたが、地方分権性が強くて兵農分離と太閤検地ぐらいの成果にとどまり、政権基盤の弱さからまたあっというまに政権が崩壊してしまいました。
家康はこれらを見守っていましたから、「大名を全部滅ぼすのは無理。でも機会があれば、滅ぼすか、減封にするか、領地替によって、ちょっとずつでも大名勢力を削ってやろう」と思ったのです。
秀頼は家康にとっての最大の外様大名でしたから、まるまる存続というのはありえない話です。豊臣が自ら石高を削って30万石以下で不便なところにでも領地替を申し出れば、津川さんや北大路さんも許したかもしれませんが。